東漢時代143 和帝(二十二) 班超の死 102年(2)

今回は東漢和帝永元十四年の続きです。
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
班超が久しく絶域におり(班超は明帝永平十六年73年に初めて使者として西域に赴きました)、年老いて故郷を思うようになったため、上書して帰国を乞いました「臣は酒泉郡に到ることは望みません。しかし生きて玉門関に入ることを願います(『資治通鑑』胡三省注によると、酒泉郡は雒陽の西四千七百里に位置します。玉門関は更に西の敦煌郡に属します)。謹んで子の班勇を派遣し、安息(国名)の献物と共に入塞させて、臣が生きているうちに、班勇に中土(中原の風土)を見させたいと思います(及臣生在令勇目見中土)。」
 
朝廷が久しく回答しなかったため、班超の妹曹大家(班昭)が上書しました「蛮夷の性とは悖逆侮老(道理がなく老人を侮ること)です。超(班超)は朝晩には地に入るのに(老齢で寿命が短いのに。原文「旦暮入地」)、久しく交替することがないので、奸悪の源(姦宄之原)を開き、逆乱の心を生むのではないかと恐れます。しかし卿大夫は皆、目先の事だけを抱き(原文「咸懐一切」。「一切」は「目先の事」「とりあえず」の意味です)、遠くを考慮しようとしません。もし緊急の事があったら(如有卒暴)、超(班超)の気力は心に従うことができず、上は国家の累世の功を損ない、下は忠臣竭力(尽力)の用(効能。成果)を棄てることになるので、誠に心痛するべきです(誠可痛也)。そのため、超(班超)は万里を越えて誠を帰し(忠誠を示し)、自ら苦急を陳述し、首を延ばして遠くを望みましたが(延頸踰望)、今に至るまで三年になるのに、いまだ省録(承認、批准)を蒙っていません。妾(私)が窺い聞いたところでは(妾竊聞)、古では十五で兵器を授かり、六十でそれを返しました(原文「十五受兵六十還之」。『資治通鑑』胡三省注によると、国中(国内。都市内)では六十で兵役を免じられ、野(野外。都市以外の地)では六十五で免じられました。野は国中(国内)より五歳遅くなります。また、国中(国内)では七尺で兵役に就きましたが、野では六尺でした。野は国中(国内)より五年早くなります。七尺は二十歳、六尺は十五歳を指します。班昭が「十五受兵」と言ったのは野外の規定で、「六十還之」は国中(国内)の規定です)。また、休息もあって職を任せないものでした(原文「亦有休息不任職也」。「兵役中も休息があり、その間は職務を与えなかった」または「兵役中も休息があり、老齢になったら職務を与えなかった」という意味だと思います)。よって妾(私)は敢えて死を冒して(敢觸死)(班超)のために求哀し(憐れみを乞い)、超(班超)の余年(余生)に一度でも生還して再び闕庭を眺め、国家に労遠(遠征)の慮を無くさせ(老齢の班超が帰還すれば蛮夷の「悖逆侮老」の本性を抑えることができるので、遠征の必要がなくなります)、西域に倉卒(緊急事態)の憂を無くさせ、超(班超)が長く文王の葬骨の恩と子方の哀老の恵を蒙られることを乞います。」
和帝は班昭の言に心を動かされて班超を呼び戻しました。
 
資治通鑑』胡三省注が「文王の葬骨の恩」と「子方の哀老の恵」の解説をしています。
西周文王が霊台を造って地を掘った時、死人の骨を得ました。文王が「改めて埋葬せよ」と言いましたが、官吏は「これは主がいません(骨には主がいません。誰の骨か分かりません。原文「此無主矣」)」と言いました。
すると文王はこう言いました「天下を有す者が天下の主である。一国を有す者が一国の主である。寡人は元々その(骨の)主である。どうしてまた主を求めるのだ(又安求之主)。」
こうして骨が改めて埋葬されました。
天下の人々は皆こう言いました「文王は賢である。恩沢が朽骨にも及んだ。人に対してならなおさらだろう。」
これが「文王の葬骨の恩」です。
「子方の哀老の恵」の子方は田子方といい、戦国時代魏文侯の師でした。文侯が老馬を棄てるのを見て、田子方が言いました「馬が若い時はその力を尽くさせ、老いたら棄てるのは、仁ではありません(少尽其力老而棄之非仁也)。」
文侯は改めて馬を養いました。
 
班昭に関しては、和帝永元四年92年)にも触れました。以下、『資治通鑑』胡三省注からです。
班昭は扶風の人曹寿に嫁ぎました。博学高才で節操品行があって法度を守っていたため(有節行法度)、帝(恐らく和帝です)がしばしば招いて入宮させ、皇后や諸貴人に師事させました。
後に沖帝の母虞貴人や梁冀が秉政(専横)した時、班昭の地位を抑えて爵号を加えなかったため、「大家」と称しました。「大家」は宮中の尊称です。
 
本文に戻ります。
八月、班超が雒陽に入りました。射声校尉に任命されます。
九月、班超が死にました。
 
後漢書班梁列伝(巻四十七)』では、班超は和帝永元十二年100年)に上書し、十四年102年。本年)に雒陽に還っています。また、班昭の上書でも「首を延ばして遠くを望み、今に至るまで三年(足掛け)になる(延頸踰望三年於今)」と言っています。
しかし、『欽定四庫全書東観漢紀(巻十六)』を見ると、安息国が使者を送って大爵(大雀。駝鳥)と師子(獅子)を献上した時、班超が子の班勇を派遣して安息の使者と共に入塞させています。『後漢書孝和孝殤帝紀』では、永元十三年101年)に安息国が入貢しているので、班勇が入塞したのはこの時のようです。
資治通鑑』胡三省注によると、袁宏の『後漢紀』も班超の上書を永元十三年の事としています。
このように、『後漢書班梁列伝』では永元十二年に上書しており、『欽定四庫全書東観漢紀』と『後漢紀』では永元十三年に上書しているため、『資治通鑑』は上書の年を明確にせず、本年に上書と帰還を合わせて書いています。
 
また、胡三省注によると、袁宏の『後漢紀』では、「班超は(雒陽に)至って数カ月で死んだ」としていますが、『資治通鑑』は『後漢書班梁列伝』に従って「八月帰還、九月死去」としています。
 
『班梁列伝』によると、班超は匈脅疾(胸から腋の下、肋骨にかけての病。恐らく胸の病です)を患っており、帰国後、ますますひどくなって死にました。享年は七十一歳です。
朝廷は班超の死を惜しんで使者に弔祭させ、贈賵(葬礼に使う財物)を甚だ厚くしました。
子の班雄(班勇の兄)定遠侯を継ぎました。
 
以下、『資治通鑑』からです。
班超が呼び戻された時、戊己校尉任尚が代わりに西域都護になりました。
任尚が班超に言いました「君侯は外国に三十余年もいました。小人(私)が君(あなた)の後を猥承(継承。「猥」は謙遜の言葉です)することになりましたが、任が重く慮が浅いので、教えをいただきたいです(宜有以誨之)。」
班超が言いました「(私は)年老いて智を失った。君(あなた)はしばしば大位に当たったので、どうして班超が及ぶことができるか(豈班超所能及哉)。しかしどうしてもと言うのなら、愚言を進めたいと思う(必不得已願進愚言)。塞外の吏士は、元々孝子順孫(孝順な子や孫)ではなく、皆、罪過によって移され、辺屯を補っている。そして蛮夷は鳥獣の心を抱いており、養うのは難しいが事を敗す(乱す)のは容易だ(難養易敗)。今、君の性は厳急だが、水が清ければ大魚はおらず、察政(明瞭すぎる政事)は下の和を得られない(水清無大魚,察政不得下和)。蕩佚(放縦。自由)簡易にして、小過(小さい過ち)は寛恕し、大綱を統べる(まとめる)だけとするべきだ。」
班超が去ってから任尚が個人的に親しい者に言いました「私は班君に奇策があるはずだと思っていたが、今言ったのは平凡なことに過ぎない(今所言平平耳)。」
しかし任尚は後に辺境の和を失い、班超が言った通りになりました。
 
[十二] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
冬十月甲申、和帝が詔を発しました「兗、豫、荊州は今年、水雨が淫過(過多)なので、多く農功(農業の成果)を傷つけた。よって被害が十分の四以上の者は皆、田租、芻稾(飼料)の半分を納めさせ、それに満たない者は実情によって免除する。」
 
 
 
次回に続きます。