東漢時代145 和帝(二十四) 唐羌 103年

今回は東漢和帝永元十五年です。
 
東漢和帝永元十五年
癸卯 103
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
春閏月乙未、和帝が詔を発しました。流民で本籍に帰りたくても食糧がない者には、通る場所で実情に合わせて食糧を与えさせ(過所実稟之)、疾病した者には医薬を与えました。但し本籍に帰ることを欲しない者には強制しませんでした。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
二月、和帝が詔を発し、潁川・汝南・陳留・江夏・梁国・敦煌の貧民を稟貸(救済)しました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
夏四月甲子晦、日食がありました。
 
当時、和帝は粛宗(章帝)の故事(前例)に倣って兄弟を皆、京師に留めていました。
有司(官員)が日食の陰盛(陰気が盛んになって日食が起きたこと)を理由に、諸王を封国に派遣するように上奏しました。
和帝が詔を発して言いました「甲子の異(異変)の責任は朕一人にある(責由一人)。諸王は幼穉(幼稚。未熟)なのに早くから顧復(父母の保護養育)を離れ、弱冠(二十歳)にして互いに育み(互いに助けあい。原文「弱冠相育」)、常に『蓼莪(『詩経小雅』)』『凱風(『詩経国風』)』の哀がある(『蓼莪』には「哀哀父母」、『凱風』には「母氏劬労(母が心労する)」といった句があります)。選懦(柔弱。憐憫して決断できないこと)の恩は国典(国法)ではないことを知っているが、また暫く宿留(停留。滞在)させることにする。」
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
五月戊寅、南陽で大風が吹いて被害が出ました南陽大風)
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
六月、和帝が詔を発し、百姓や鰥寡(配偶者を失った男女。身寄りがいない者)に陂池(池沼)で漁采(漁業採取)させ、二年は假税(土地を借りている者が納める税)を徴収しないことにしました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
秋七月丙寅、済南王劉錯が死にました。
 
劉錯の諡号は簡王で、安王・劉康の子、光武帝の孫です。『後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、劉錯の死後、子の孝王劉香が継ぎました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
再び涿郡故安(地名)の鉄官を置きました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋九月壬午(二十日)、車駕(和帝)が南巡しました。
清河王劉慶、済北王劉寿、河間王劉開の三王が共に従いました。三人とも和帝の兄弟です。
 
通過した場所で二千石長吏以下、三老、官属および百歳になる民(民百年者)にそれぞれ差をつけて銭布を下賜しました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
この秋、四つの州で大雨が降って被害が出ました(四州雨水)
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月戊申(十七日)、和帝が章陵を行幸して旧宅を祀りました。
癸丑(二十二日)、園廟を祀り、旧廬で宗室と会しました。宴を開いて慰労賞賜します(労賜作楽)
 
戊午(二十七日)、雲夢に進みました。
この時、太尉張禹が京城を留守していましたが、車駕(皇帝)が江陵を行幸しようとしていると聞き、危険を冒して遠遊するべきではないと考えたので、駅馬を送って諫めました。
 
和帝が詔を発して応えました「祠謁が既に終了し(章陵を行幸して四親陵廟を参謁しました)、南に向かって大江を祀ろうとしたところだったが(当南礼大江)、ちょうど君の奏(上奏)を得たので、漢漢水に臨んだら輿(車)を返して帰還する(臨漢回輿而旋)。」
 
十一月甲申(二十三日)、皇宮に還りました。
公卿以下、従臣および留守した者にそれぞれ差をつけて銭布を下賜しました。
 
[十一] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
十二月庚子、琅邪王劉宇が死にました。
劉宇の諡号は夷王で、孝王劉京の子、光武帝の孫です。『後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、劉宇の死後、子の恭王劉寿が継ぎました。
 
[十二] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
以前は嶺南の南海郡から生龍眼(新鮮な龍眼)や荔枝が献上されており、十里ごとに一駅を、五里ごとに一候(堠。土堡)を置いて(十里一置五里一候)、昼夜伝送していました。駅馬が険阻な地を走り、死者が道に連なります。
臨武長(県長)汝南の人唐羌は県が南海に接していたため(『孝和孝殤帝紀』によると、臨武県は桂陽郡に属します)上書して諫めました「臣が聞いたところでは、上(上の者)は滋味(美味を得ること)を徳とせず、下(下の者)は貢膳(美味を献上すること)を功としないものです。伏して見るに、交趾七郡(『資治通鑑』胡三省注によると、南海、蒼梧、鬱林、合浦、交趾、九真、日南の七郡です)が生龍眼等を献上しており、鳥を驚かせて風を発しています(伝送の速度が速いという意味です。原文「鳥驚風発」)。しかし南州の土地は炎熱で、悪蟲猛獣が路上で絶つことなく、ひどい場合は死亡の害を冒しています(至於觸犯死亡之害)。死者は復生(蘇生)できませんが、(今後貢献に)来る者はまだ救うことができます。また、この二物が殿に登っても、延年益寿(長生き)できるとは限りません。」
和帝が詔を発して言いました「遠国の珍羞(珍味)は本来、宗廟に供えるためにある(本以薦奉宗廟)。もしも(そのために)傷害があるようなら、どうして民を愛す根本といえるだろう(苟有傷害,豈愛民之本)。よって太官に勅令し、今後は献(貢物)を受けさせないことにする。」
こうして南海の貢物が中止されました。
 
『孝和孝殤帝紀』の注によると、唐羌の字は伯游といい、臨武長を勤めました。臨武県は交州に接しており、駅馬が臨武県を通っていたため、唐羌が上書して和帝を諫めました。
上奏文が提出されてから、唐羌は官を棄てて家に帰り、その後、徵召に応じませんでした。著書に『唐子』三十余篇があります。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
この年、始めて郡国に命じて「日北至」から薄刑(軽刑)の審理をさせました(以日北至按薄刑)
「日北至」は二十四節気の「夏至」です。元々は陰気が強くなる秋から裁判や刑罰を行うことになっていましたが、この年から、夏至(まだ夏です)になったら軽犯罪の裁判や刑罰を行うことにしました。
 
尚、胡三省は「日北至」を誤りとしています。
礼記月令』を見ると、「孟夏之月(四月)」に「靡草(草の名)が死に、麦秋(麦が実る時)が至る。薄刑を断じ(判決し)、小罪を決し、軽繋(軽犯罪を犯した囚人)を出す」とあります。
また、『後漢書卓魯魏劉列伝(巻二十五)』にも「旧制では立秋に到ったら薄刑を行ったが、永元十五年(本年)以来、孟夏に改められた」という記述があります。
 
後漢書孝和孝殤帝紀』はこう書いています「当時、有司(官員)が『夏至には微陰(生まれたばかりの陰気)が起きて靡草が死ぬので、小事を決することができます夏至則微陰起,靡草死,可以決小事)』と上奏した。この年、始めて郡国に命じて『日北至』から薄刑の審理をさせた。」
 
本来、有司が上奏した「夏至」は「夏が至った時」という意味で、「日北至二十四節気の「夏至」)」ではなく「孟夏(四月)」を指すようです。しかし『孝和孝殤帝紀』が「夏至」を誤って「日北至」と解釈したため、『資治通鑑』も誤ったまま「日北至」と記述したのだと思われます。
 
 
 
次回に続きます。