東漢時代146 和帝(二十五) 北匈奴 104年

今回は東漢和帝永元十六年です。
 
東漢和帝永元十六年
甲辰 104
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
春正月己卯、和帝が詔を発し、貧民で田業(田地等の産業)があっても匱乏(貧困)のため自農できない者に種糧穀物の種や食糧)を貸し与えました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
二月己未、和帝が詔を発しました。兗冀四州は連年雨が多く収穫が損なわれているため(比年雨多傷稼)、酒の販売を禁止しました(禁沽酒)
 
夏四月、三府(太尉司徒司空)掾を分けて四州を行幸させ、貧しくて耕作できない民に犂牛(農耕で使う牛)と同額の金銭を貸し与えました(貧民無以耕者為雇犂牛直)
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
五月壬午、趙王劉商(頃王)が死にました。
 
劉商は節王劉盱(または「劉栩」)の子で、劉盱は・孝王・劉良の子、劉良は光武帝の叔父です。
後漢書宗室四王三侯列伝(巻十四)』によると、劉商の死後、子の靖王劉宏が継ぎました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、旱害がありました。
戊午(初一日)、和帝が詔を発しました「今、秋稼(秋の収穫)が穗をつけたのに旱害に遭い、雲雨が潤沢ではない(雲雨不霑)。吏が惨刻(残刻苛酷)を行い、恩沢を宣揚せず、妄りに無罪を捕え、良善を幽閉していることが招いたのではないかと疑う。よって一切の囚徒で法において疑いがある者は裁決せず、秋令を奉じることにする(原文「其一切囚徒於法疑者勿決,以奉秋令」。漢令では秋以降に裁判と刑罰を行うことになっていました。これが「秋令」です。前年、軽犯罪は孟夏(四月)から裁判・刑罰を行うことにしましたが(「孟夏の制」といいます)、今回、「秋令」に戻したようです。但し、安帝永初元年・107年にも魯恭が「孟夏の制」について言及します。本年は判決に疑いがある者のみ「秋令」に戻したのかもしれません)。これから煩苛(苛酷)の吏を察し、その罰を明らかにする(方察煩苛之吏顕明其罰)。」
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
辛酉(初四日)、司徒魯恭を罷免しました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
庚午(十三日)、光祿勳張酺を司徒に任命しました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
辛巳(二十四日)、和帝が詔を発して天下に命じ、本年は田租芻稾(飼料)の半数を納めさせることにしました。災害を被った者は実情に合わせて租を免除しました(以実除之)
貧民が借りている種糧穀物の種や食糧)および田租、芻稾に対しては、全て返済回収の督促をさせないことにしました(貧民受貸種糧及田租芻稾、皆勿收責)
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
八月己酉(二十二日)、張酺が死にました。
冬十月辛卯(初五日)、司空徐防を司徒に、大鴻臚陳寵を司空に任命しました。
 
[] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
十一月己丑(中華書局『白話資治通鑑』は「己丑」を恐らく誤りとしています)、和帝が緱氏を行幸して百山を登りました。
百官・従臣に差をつけて布を下賜しました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、緱氏県は河南尹に属し、「百山」は「柏山」ともいいます。
 
[] 『後漢書・孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
北匈奴が使者を送って臣と称し、貢物を献上しました。東漢と和親して呼韓邪の故約西漢時代に呼韓邪単于が結んだ盟約)を修めることを願います。
しかし和帝は旧礼が備わっていない北匈奴が呼韓邪単于の礼を備えていない)ことを理由に同意せず、厚く賞賜を加えたものの答礼の使者を派遣しませんでした(不答其使)
 
[十一] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
十二月、再び遼東西部都尉の官を置きました。
『孝和孝殤帝紀』の注によると、安帝時代になってから西部都尉は属国都尉に改められます。治所は遼東郡昌黎城です。
 
 
 
次回に続きます。