東漢時代147 和帝(二十六) 和帝の死 105年

今回は東漢和帝元興元年です。
 
東漢和帝元興元年
乙巳 105
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
春正月戊午、三署郎を招いて禁中(宮中)で接見し、七十五人を選んで謁者、長(県長)、相(国相)に任命しました。
 
『孝和孝殤帝紀』の注によると、「三署」は五官署と左右署を指します。それぞれ中郎将が管理しました。
郡国が挙げた孝廉は三署郎に配属されました。五十歳以上の者は五官署に属し、それより下の者は左右署に分けられます。中郎、議郎、侍郎、郎中の四等があり、定員は決められていません。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
高句驪王宮が遼東塞に入って六県を侵しました。
資治通鑑』胡三省注は「句驪高句麗は宮に至ってしだいに強くなり、しばしば辺境を侵した」と解説しています。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月庚午(中華書局『白話資治通鑑』は「庚午」を恐らく誤りとしています)、天下に大赦して永元十七年から元興元年に改元しました。
 
罪を犯して関係を絶たれた宗室も全て属籍が恢復されました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
五月癸酉、雍の地が裂けました。
『孝和孝殤帝紀』の注によるとこの「雍」は右扶風に属します。雍州ではありません。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋九月,遼東太守耿夔が高句驪(貊人)を撃って破りました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十二月辛未(二十二日)、和帝が章徳前殿で死にました。二十七歳でした。
 
竇憲が誅殺されてからは和帝が自ら万機(政務)に臨んでいました。災異がある度に公卿を招いて意見を問い、得失について語り尽くします(極言得失)
和帝時代は前後して八十一カ所に符瑞がありましたが、和帝は自ら徳が薄いと称し、それらを全て抑えて発表しませんでした。
 
以前、和帝は十数人の皇子を失いました。そこで後から生まれた皇子は全て民間で養わせ、秘密にしました(皇宮から出すことに厄払いのような意味があったのだと思われます。あるいは外戚や宦官による謀殺を恐れたのかもしれません)。群臣でそれを知る者はいません。
 
和帝が死ぬと、鄧皇后が民間から皇子を戻しました。
長子(年上の子)劉勝は痼疾(難病。不治の病)があったため、少子(最年少の子)劉隆を迎えて皇太子に立てました。劉隆は生後百余日しか経っていません。
 
その日(皇太子に立てられた日)の夜、劉隆が皇帝の位に即きました。これを殤帝といいます。
鄧皇后を尊んで皇太后にしました。
 
天下の男子に一人当たり二級の爵を、三老、孝悌、力田には一人当たり三級を、民で名数(戸籍)がない者および流民で名乗り出て戸籍を欲した者(民無名数及流民欲占者)には一人当たり一級を下賜しました。
また、鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りがない老人)𤸇(重病の者)貧困で自存できない者には一人当たり三斛の粟を与えました。
 
皇帝が幼いため、鄧太后が政事を行いました(臨朝)
当時は大憂(大喪。皇帝崩御に遭ったばかりで、法禁(法制禁令)が設けられていませんでした。
ちょうどこの時、宮中で一篋(一箱)の大珠が無くなりました。鄧太后は「考問(拷問。訊問)を行ったら必ず不辜(無罪)の者も連座して冤罪を被ることになる」と考え、自ら宮人を看て顔色を観察しました。その結果、大珠を盗んだ者がすぐに罪を認めました。
 
和帝には吉成という幸人(寵愛する者)がいました。
和帝が死ぬと、御者(侍者)が共に吉成を陥れ、巫蠱の事(鄧太后を呪詛しているということ)を訴えました。
吉成は掖庭に下されて考訊(訊問)を受け、辞証(証言と証拠)が明白にされます。
しかし鄧太后は、「吉成は先帝の左右にいて待遇に恩恵があり、普段、悪言がなかったのに、今になって逆にこのようにするのは人の情(道理)に合わない」と考えました。
資治通鑑』胡三省注は「先帝の時代、鄧后は恩恵によって吉成を待遇しており、吉成も寵愛を盾に鄧后に悪言を加えることがなかった。今、和帝が既に死に、太后が政治を行うようになってから、逆に巫蠱を為すのは道理に合わない」と解説しています。
 
太后は改めて吉成を招き、自ら会って實覈(検証)しました。その結果、御者が為したことだと明らかになります。
この出来事に讃嘆感服しない者はなく、皆が鄧太后を聖明とみなしました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
北匈奴が再び使者を敦煌に派遣して貢献しました。
 
前年、北匈奴が和親を求めましたが、和帝は旧礼が備わっていない北匈奴が呼韓邪単于の礼を備えていない)ことを理由に同意しませんでした。
そこで今回は「国が貧しいため礼を備えることができない」と言って謝罪し、東漢の大使を求め、子を送って入侍させることを願いました。
資治通鑑』胡三省注によると、天子が大使を派遣したら、その国は子を送って大使に従わせ、朝廷に入侍させることになっていました。
 
太后はやはり答礼の使者を送らず、賞賜を加えただけでした(亦不答其使加賜而已)
 
[] 『資治通鑑』からです。
雒陽令広漢の人王渙はその身が公平正直で(居身平正)、姦伏を明察摘発することができ、外は猛政を行いながら内には慈仁を抱いていました。王渙の平断(判決)に対して悦服しない人はなく、京師の人々は称嘆して王渙に神筭(神算。神のような計策、知能)があるのではないかと思いました(『資治通鑑』の原文は「京師以為有神」ですが、『後漢書循吏列伝(巻七十六)』では「京師称歎,以為渙有神筭」です。ここは『後漢書』に従いました)
 
この年、王渙が官に就いたまま死にました。
百姓が道に集まり(百姓市道、嘆息して涙を流さない者はいません。
王渙の喪(霊柩)が西(故郷の広漢)に帰る時、弘農を通りました。
ここでも民庶(民衆)がそろって道に槃案(祭物を置く机)を設けます。
官吏がその理由を問うと、皆こう言いました「いつもは米を持って雒(雒陽)に行く時、吏卒に奪われて、常に半数を失っていました。しかし王君が職に就いてからは、侵枉(侵害)に遭うことがなくなりました。だから恩に報いに来たのです。」
 
雒陽の民は王渙のために祠を建てて詩を作りました。祭祀の度に詩を弦歌(演奏唱歌して王渙に贈ります。
太后が詔を発しました「忠良の吏がいるから、国家が治まるのである(夫忠良之吏,国家之所以為治也)。これを求めて甚だ尽力しているが、これを得るのは極めて少ない(求之甚勤,得之至寡)。今、王渙の子王石を郎中とし、労勤を勧める(勤労な官吏を奨励する)。」
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代148 殤帝(一) 鄧太后の節倹 106年(1)