東漢時代148 殤帝(一) 鄧太后の節倹 106年(1)

今回から東漢殤帝の時代です。殤帝の在位年数は一年です。
 
孝殤皇帝
劉隆といい、和帝の少子で民間で育てられました(前年参照)。実母の名は伝わっていないようです。
 
和帝元興元年105年)十二月辛未(二十二日)に和帝が死に、その夜、劉隆が皇帝の位に即きました。生後わずか百余日です。
鄧皇后を尊んで皇太后にしました。鄧太后が政治を行います太后臨朝)
 
 
東漢殤帝延平元年
丙午 106
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月辛卯(十三日)、太尉張禹を太傅に、司徒徐防を太尉に任命し、二人に尚書の政務を担当させました(参録尚書事)。百官は各自の職を主持して二人の命を聴くことになります(百官総己以聴)
 
殤帝がまだ襁褓にいたため、鄧太后重臣を禁内(禁中)に住ませようとしました。
そこで詔を発して張禹を宮中に泊まらせ、五日に一回、府(府邸)。家)に帰ることを許しました。
朝見の度に特賛し、張禹は三公と別れて座りました(與三公絶席)
「特賛」というのは入朝の際、単独で名を呼ぶことです。大臣群臣が入朝する時、まず張禹の名が読み上げられ、その後、三公以下の名が呼ばれました。「特賛」も三公と席を分けたのも特別な待遇を意味します。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
皇兄劉勝(殤帝の兄)を平原王に封じました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
癸卯(二十五日)、光禄勳梁鮪を司徒に任命しました。
後漢書孝和孝殤帝紀』によると、梁鮪の字は伯元で、河東平陽の人です。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月甲申(初七日)、孝和皇帝を慎陵に埋葬しました。廟号は穆宗といいます。
資治通鑑』胡三省注によると、慎陵は雒陽東南三十里に位置します。
また、『後漢書孝和孝殤帝紀の注によると「慎陵」を「順陵」と書くこともありますが、誤りです。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
丙戌(初九日)、清河王劉慶、済北王劉寿、河間王劉開、常山王劉章が始めて封国に赴きました。
劉慶、劉寿、劉開は章帝の子、劉章は明帝の孫で淮陽頃王劉昞の子です。
 
太后は特別に劉慶に殊礼(諸王とは異なる特殊な礼)を加えました。
劉慶の子は劉祜といい、この時、十三歳でした。
太后は殤帝が幼弱だったため不測の事態を心配し(遠慮不虞)、特別に詔を発して劉祜と嫡母(劉慶の正妻)耿姫を清河邸(雒陽)に留めました。
耿姫は耿況光武帝時代の功臣)の曾孫です。劉祜の実母は犍為の人で左姫といいます(後述します)
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』からです。
夏四月庚申(十三日)(鄧太后が)詔を発して「祀典(祭祀に関する典籍)」に記載がない祀官(祭祀の官)を廃しました。
後漢書孝和孝殤帝紀』の注によると、鄧太后は元から淫祀(礼制に合わない祭祀)を好みませんでした。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
鮮卑が漁陽を侵しました。
漁陽太守張顕が数百人を率いて塞から出撃し、鮮卑を追撃しました。
兵馬掾(『資治通鑑』胡三省注によると、辺郡の官署には兵馬掾がおり、兵馬を管理していました)厳授が諫めて言いました「前道は険阻で、賊の勢いも量り難いので、暫くは営を結び、まず軽騎に命じて偵視(偵察)させるべきです。」
しかし張顕は鋭意が盛んだったため、怒って厳授を斬ろうとしました。
張顕はそのまま兵を進めます。
その結果、鮮卑の伏兵に遭遇しました。士卒が全て逃走しましたが、厳授だけは力戦して体に十の傷を負い、自らの手で数人を殺してから死にました。
主簿衛福と功曹徐咸も自ら出陣して張顕に合流し、どちらも陣没しました(皆自投赴顕俱没於陳)
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀と『資治通鑑』からです。
丙寅(十九日)、虎賁中郎将鄧騭(鄧太后の兄)を車騎将軍に任命し、待遇を三公と同等にしました(これを「儀同三司」といいます。「三司」は「三公」です)
また、鄧騭の弟に当たる黄門侍郎鄧悝が虎賁中郎将に、鄧弘と鄧閶が侍中になりました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
司空陳寵が死にました。
 
[] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と『資治通鑑』からです。
五月辛卯(十五日)、皇太后が詔を発しました「皇帝が幼冲(幼少)でありながら鴻業(大業)を承統(継承)したので、朕が暫く輔佐して聴政していますが(且権佐助聴政)、兢兢寅畏(敬畏)して、成就するところを知りません(どうすれば成功できるのか分かりません。原文「不知所済」)。深く至治の本(最良な政治の根本)を思うに、道化(教化)が前にあり、刑罰が後にあるので、これからは中和(中庸)を考察し(将稽中和)、広く慶恵を施し、吏民と共に更始(改新)します。よって、天下に大赦を行います。建武光武帝時代)以来、禁錮を犯した者に対して詔書が既に(刑を)解いても、有司(官員)が慎重になっているため、多くが執行されていません(有司持重多不奉行)。今、全て平民に戻します。」
こうして大赦が行われました。
 
[十一] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
壬辰(十六日)、河東垣県で山崩れがありました。
 
[十二] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
六月丁未(初一日)、太常尹勤を司空に任命しました。
 
[十三] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
三十七の郡国で大雨が降り、被害が出ました(郡国三十七雨水)
 
[十四] 『後漢書孝和孝殤帝紀』と資治通鑑』からです。
己未(十三日)、鄧太后が詔を発しました「夏に入ってから陰雨(曇りと雨)が節を越え、煗気(温暖の気)に効果がないのは(夏なのに暖かくならないのは。原文「煗気不效」)、咎があるからでしょう(将有厥咎)寝ても覚めても愁い恐れていますが、その理由が分かりません(寤寐憂惶未知所由)。昔、夏后夏王朝の王)は衣服を嫌って飲食を少なくしたので(悪衣服菲飲食)孔子が『私には(夏后に対して)非難することがない(吾無閒然)』と言いました。今、大憂(和帝の崩御に遭ったばかりで、しかも歳節が和しませんが、(皇帝や皇太后の)食事や衣服を削減すれば、あるいは助けになるかもしれません(徹膳損服庶有補焉)。よって、太官・導官・尚方・内署の諸服御珍膳(美味。珍味)靡麗難成の物(奢侈で手に入れるのが難しい物)を減らすことにします。」
 
資治通鑑』胡三省注によると、「太官令」は周代に始まる官で、秩千石です。天子の御膳(食事)を管理しました。「導官」の「導」は「選ぶ」の意味で、御米(宮廷の米)の選択を担当しました。「尚方」は刀剣や諸器物の作成を担当し、「内署」は内府の衣物を管理します。これらの令は皆、秩六百石でした。
 
今後、陵廟に供える稲粱米穀物以外は導択(選別)をさせず、朝夕に一度肉と飯をとるだけとしました。
旧太官、湯官の費用は一年に二万万(二億)を必要としましたが、この後は数千万になりました。
資治通鑑』胡三省注によると、湯官丞は酒を管理し、太官令に属します。
 
また、郡国からの貢物を全て半数に減らしました。
上林苑の鷹犬を全て売り出し(『資治通鑑』胡三省注によると、東漢にも上林苑がありました。雒陽西に位置します)離宮と別館が蓄えていた米糒穀物、干飯)薪炭も全て減らすように命じました。
 
 
 
次回に続きます。