東漢時代149 殤帝(二) 安帝即位 106年(2)
今回は東漢殤帝延平元年の続きです。
六月丁卯(二十一日)、(鄧太后が)司徒、大司農、長楽少府に詔を発しました「朕は無徳によって統政(皇統の政治)を佐助(補佐)しており、朝から夜まで経営して衷(善、福。中庸)を失うことを懼れています(夙夜経営懼失厥衷)。治道について思考するに、(治道とは)近くから始めて遠くに及ぼし、先に内で行って後から外に広げるものです(由近及遠先内後外)。建武(光武帝時代)の初めから今に至るまで八十余年が経ち、宮人が毎年増え、房御(宮中の女官)が更に増えています(房御彌広)。また、宗室で事に坐して没入した者(奴婢に落とされた者)も、まだ公族の名をかたっており(猶託名公族)、甚だ憐憫するべきです(甚可愍焉)。よって今、全て免じて送り帰し、掖庭の宮人に及んでも皆、庶民にして幽隔鬱滞の情(隔絶されて積もらせた鬱屈の情)を静めることにします(抒幽隔鬱滞之情)。諸官府、郡国、王侯の家の奴婢で姓が劉の者および疲𤸇(疲弊病弱)・羸老(衰弱老齢)の者は全てその名を報告し、務めて実情を明らかにさせなさい(務令実悉)。」
秋七月庚寅(十五日)、司隸校尉と部刺史(州刺史)に(鄧太后が)勅令を発しました「天が災戾(災害)を降すのは、政治に応じて至るものです。最近、郡国のある場所では水災があり、秋稼(秋の収穫)を妨害しました。朝廷は咎を思い、憂惶悼懼(憂い恐れること)していますが、郡国は豊穰虚飾の誉(豊作を偽って得る虚飾の名誉)を獲ることを欲し、災害を覆蔽して(被害を隠して)、墾田面積を誇張し(多張墾田)、流亡した者を計らず(不揣流亡)競って戸口を増やし、盗賊を掩匿(匿うこと)して姦悪への懲罰を無くさせ(盗賊の存在を隠しているため刑罰を加えることができません)、署用(官吏の任命)は秩序に則らず(署用非次)、選挙は道理を失い(選挙乖宜)、貪苛惨毒(貪婪暴虐の害)が平民に及んでいます。しかし刺史は頭を垂れて耳を塞ぎ、私情を優先して下の者と結び(阿私下比)、天に対して畏れることなく、人に対して慚愧することもありません(原文「不畏于天不愧于人」。『詩経・小雅』の一句です)。(朝廷による)假貸(寛大)の恩はしばしば頼れることではないので(不可数恃)、今からはその罪を糾弾することにします。二千石長吏(二千石の高官。または二千石と長吏。二千石は郡太守や国相、長吏は県の高級官吏です)はそれぞれ傷害となったところを実覈し(災害の被害を調査し)、(実情に合わせて民のために)田租・芻稾(飼料)を除きなさい。」
癸丑(初八日)、殤帝が棺に入れられて崇徳前殿に安置されました(殯于崇徳前殿)。
『資治通鑑』胡三省注によると、雒陽南宮に崇徳殿がありました。
『資治通鑑』胡三省注によると、皇太子と皇子は皆、安車(座って乗る小車)に乗りました。朱班輪(赤い模様で飾られた車輪)、青蓋(青い傘)、金華蚤(「華蚤」は傘の四周についた金具です)がついており、皇子を封王した時に下賜して乗せたため、「王青蓋車」といいます。皇孫は緑車に乗りました。
皇太后が崇徳殿に登り、群臣百官が皆、吉服で参加しました(吉服陪位)。
まず劉祜を招いて長安侯に立てます。
『資治通鑑』胡三省注によると、凶事によって朝廷に臨んではならないため、殤帝が死んだばかりでしたが、吉服に改めました。
その後、皇太后が詔を発しました「先帝(和帝)は聖徳が淑茂(善美)でしたが、早くに天下を棄てました。朕は皇帝(殤帝)を奉じて、朝から夜まで敬意をもって日月を仰ぎ、成就を望んでいました(夙夜瞻仰日月、冀望成就)。どうして突然挫折して天年(天寿)を遂げられないことを想像できたでしょう(豈意卒然顛沛天年不遂)。悲痛断心(「断心」は極度に悲痛することです)しています。
朕は平原王がかねてから痼疾(難病。不治の病)を被っていることを考慮していました。宗廟の重(重責)を念じ、継嗣の統(継承される皇統)を思ったところ、長安侯・祜だけが質性忠孝(資質が忠孝)、小心翼翼(慎重敬恭)で、詩・論(「詩」は『詩経』、「論」は恐らく『論語』です。「論」は書名ではなく「道理」の意味かもしれません)に通じることができ、学問を厚くして古を楽しみ(篤学楽古)、(性格が)仁恵で下を愛しています。年は既に十三で、成人の志があります。親徳(血統と徳性)を後代に継承するのに、祜よりふさわしい者はいません(親徳係後莫宜於祜)。『礼』は『兄弟の子は自分の子と同じである(昆弟之子猶己子)』と言っています。春秋の義においては、人の跡を継いだらその人の子となり、父の命によって王父(祖父)の命を拒否してはならないものです(為人後者為之子,不以父命辞王父命)。よって祜を孝和皇帝の嗣(後嗣)とし、祖宗を奉承(継承)させることにします。礼儀(儀礼)を検討して上奏しなさい(案礼儀奏)。」
こうして劉祜が孝和皇帝の後嗣になりました。
更に策命(任命書)が作られます「延平元年秋八月癸丑(初八日)に皇太后が言った『長安侯・祜よ(咨長安侯祜)、孝和皇帝は懿徳(美徳)が巍巍(広大な様子)とし、四海を照らしました(光于四海)。大行皇帝(崩御したばかりでまだ諡号がない皇帝。ここでは殤帝を指します)は天年(天寿)が永くありませんでした。朕は侯(長安侯)が孝章帝の世嫡皇孫であり、謙恭慈順(「慈順」は「友愛和順」の意味です)で、幼いのに勤勉なので(在孺而勤)、郊廟を奉じて大業を承統(継承)するべきだと考えました。今、侯は孝和皇帝の後を継いだので、慎重に漢国を統治し、誠心誠意その中(中庸)を採りなさい(其審君漢国,允執其中)。一人に慶(善。福)があったら万民がそれを頼りにして利を得るものです(一人有慶,万民頼之)。皇帝は勉めて努力しなさい(皇帝其勉之哉)。』」
有司(官員)が策を読み終ってから、太尉が劉祜に璽綬を献上して皇帝の位に即けました。これを安帝といい、年は十三歳です。
今まで通り太后が臨朝することになりました。
(鄧太后が)詔を発して司隸校尉、河南尹、南陽太守に告げました「いつも前代を閲覧する度に(每覧前代)、外戚賓客が奉公(の官吏)を濁乱し、民の患苦となっています。咎は執法が怠懈(怠惰。頽廃)しており、すぐにその罰を行わないことにあります。今、車騎将軍・騭等は敬順の志を抱いていますが、宗門が広大で姻戚も少なくないので、賓客が姦猾を行い、多くが禁憲(禁制)を犯しています。今からは明らかに検敕(検査拘束)を加え、互いに容護してはなりません。」
この後、鄧氏の親属が罪を犯しても假貸(寛恕、恩恵)を与えなくなりました。
次回に続きます。