東漢時代150 殤帝(三) 亀茲 106年(3)
今回で東漢殤帝延平元年が終わります。
九月庚子(二十六日)、安帝が高廟を拝謁しました。
辛丑(二十七日)、光武廟を拝謁しました。
六州で大水(洪水)がありました。
己未(この年の九月は「辛丑」が二十七日なので、「己未」はありません。恐らく誤りです)、謁者を分遣して各地の実情を確認させ、災害の報告をして食糧がない者を救済させました(遣謁者分行虚実,挙災害賑乏絶)。
丙寅(この年の九月に「丙寅」はありません。恐らく誤りです)、孝殤皇帝を康陵に埋葬しました。
大水(洪水)が続いて百姓が労役を苦としていたため、方中(陵中)の秘蔵(副葬品)や諸工程は通常の約十分の一に留めました。
乙亥、陳留に隕石が落ちました。
『後漢書・孝安帝紀』は「九月庚子(二十六日)」「辛丑(二十七日)」と「己未(恐らく誤り)」「丙寅(恐らく誤り)」の後に「乙亥」の記述をしており、『資治通鑑』も「九月丙寅」の後に「乙亥」の記述をしていますが、中華書局『白話資治通鑑』によると「乙亥」は「九月初一日」です。順番が入れ違っているか、「乙亥」が誤りです。
しかし梁慬が河西に至った時、西域諸国が反して疏勒の西域都護・任尚を攻撃しました(班超の帰国後、任尚が西域都護になりましたが、人心を失っていました。和帝永元十四年・102年参照)。
任尚が上書して救援を求めました。
しかし梁慬が到着する前に任尚の包囲が解かれます。
段禧と趙博は它乾城を守りました。『資治通鑑』胡三省注によると、班超が西域都護になった時、亀茲の它乾城に住みました。
しかし它乾城は小さかったため、梁慬は守りを固めることができないと考えました。そこで、亀茲王・白霸を騙して(譎説)亀茲城に入り、共同で城を守ろうとしました。
白霸は同意しましたが、吏民が強く諫めます。
白霸は諫言を聴かず、漢軍を城に入れました。
入城した梁慬は将を派遣して急いで段禧と趙博を迎え入れました。八九千人の軍が集結します。
これに対して亀茲の吏民がそろって王(白覇)から離反し、温宿・姑墨の数万の兵と共に城を包囲しました。
梁慬等が城を出て戦い、これを大破します。
胡衆(亀茲の吏民や温宿・姑墨の兵)は数カ月にわたって兵を連ねましたが、結局敗走しました。
漢軍は勝ちに乗じて追撃し、一万余級を斬首して数千人の生口(捕虜)を獲ました。こうして亀茲が平定されます。
但し、東漢は西域諸国を鎮撫することができず、翌年、西域経営を一時諦めることになります。
『資治通鑑』胡三省注は「梁慬は健闘しなかったわけではないが、最後は西域を安定させることができなかった。いたずらに勇があるだけで、策略がなかったからである」と解説しています。
冬十月、四州で大水(洪水)があり、雹も降りました。
清河孝王・劉慶(安帝の父)が病を患い、症状が重くなりました。
劉慶は上書して樊濯にある宋貴人の冢旁(墓の傍)に埋葬されることを求めます。
十二月甲子(二十一日)、劉慶が死にました。
以下、『章帝八王伝』から抜粋します。
劉慶は左姫(左が氏です)姉妹を寵愛しました。左姫が産んだ子が安帝です。
左姫は字を小娥といい、姉は字を大娥といいました。犍為の人です。以前、伯父の左聖が妖言の罪に坐して誅殺され、家属が官奴に落とされました(家属没官)。二娥(大娥と小娥)も数歳で掖庭(後宮)に入れられます。
成長してから二人とも才色を有しました。特に小娥は史書に通じて辞賦を愛しました。
和帝が諸王に宮人を下賜した時、二人を清河第(清河王邸)に入れました。
劉慶は二人を幸愛し、他の姫妾で寵愛が二人に並ぶ者はいませんでした。しかし姉妹は劉慶より先に死に、京師に埋葬されました。
本年、劉慶が二十九歳で死にました。
当時は儒風(儒学の学風)が日々衰退していたため、尚書郎・南陽の人・樊準が上書しました「臣が聞くに、人君は学ばないわけにはいきません(人君不可以不学)。光武皇帝は命を受けて中興し、東西に誅戦して安居する暇がありませんでしたが(不遑啓処)、それでも戈(武器)を放して芸(六芸。礼・楽・射・御・書・数)を講じ(投戈講芸)、馬を休めて道を論じました(息馬論道)。孝明皇帝は庶政万機(各種政務)において留意しないことがありませんでしたが(庶政万機無不簡心)、古典に情を垂らし(古典を愛し。原文「垂情古典」)、経芸(経典)に意を遊ばせ(游意経芸)、いつも饗射の礼が終わると正坐して自ら(経典を)講じ、諸儒が並んで聴いて四方が欣欣(喜悦。喜ぶ様子)としました。また、多く名儒を招いて廊廟に配置し、讌会(宴会)の度に論難衎衎して(議論を楽しんで。「衎衎」は和楽の様子です)共に政化(政道と教化)を求めたので、期門・羽林といった介冑(甲冑)の士も全て『孝経』に通じ、教化が聖躬(皇帝の体)から始まって蛮荒に流れ及びました(化自聖躬流及蛮荒)。だから議者が盛時を称える時は、皆、永平(明帝時代)を語るのです。今は学者がますます少なくなり、遠方は特に甚だしく、博士は席を設けて講じようとせず(倚席不講)、儒者は競って浮麗(表面だけを飾った中身がないこと)を論じ、蹇蹇の忠(「蹇蹇」は忠直の意味です)を忘れ、諓諓の辞(阿諛追従の言葉)を習っています。臣の愚見によるなら、明詔を下して広く幽隠(隠居した賢者)を求め(博求幽隠)、儒雅(博学の士)を寵進し、そうすることで聖上の講習の期(時)を待つべきです。」
この時、安帝がまだ十三歳だったため、樊準は将来、安帝に講習を受けさせるために優れた儒者を探すように進言しました。
鄧太后は進言に深く納得して詔を発しました「公卿・中二千石はそれぞれ隠士、大儒を挙げ、務めて高行(高尚な品行)を取ることで後進を勧めなさい(後輩を奨励しなさい)。博士を精選して必ず相応しい人材を得られるようにしなさい(妙簡博士必得其人)。」
次回に続きます。