東漢時代153 安帝(三) 鄧太后の行幸 108年(1)

今回は安帝永初二年です。二回に分けます。
 
東漢安帝永初二年
戊申 108
 
[] 『後漢書孝安帝紀からです。
春正月、河南、下邳、東莱、河内の貧民に食糧を与えて救済しました。
『孝安帝紀』の注によると、当時、州郡を大飢饉が襲ったため、米一石が二千銭になり、人々が互いに食して(人相食)老弱が道に棄てられました。
 
[] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
車騎将軍(『孝安帝紀』は「車騎大将軍」としていますが誤りです)・鄧騭が漢陽に到りました。
しかし、諸郡の兵が到着する前に鍾羌数千人に襲撃され、鄧騭軍は冀西(冀県の西)で敗戦しました。千余人が殺されます。
 
梁慬が西域から帰還して敦煌に入りましたが、詔を受けて諸軍の後援として留まることになりました。
 
梁慬は張掖に至って諸羌万余人を破りました。羌人で脱出できた者は十分の二三しかいません。
更に梁慬は姑臧に進みました。羌の大豪(指導者)三百余人が梁慬を訪ねて投降します。
梁慬は全て慰譬(慰撫教導)して故地に送り帰しました。
 
後漢書西羌伝(巻八十七)』によると、この時、衆羌(諸羌)が離反した罪を問われた護羌校尉侯霸が朝廷に召されて罷免され、西域都護段禧が代わりに護羌校尉になりました。
 
[] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
郡国で連年水旱の害が起きており、民の多くが飢困していたため、御史中丞樊準が上書しました「太官、尚方、考功(考工)、上林池籞(園林)の諸官に無事(無用)の物を実減(実情を確認して減らすこと)させ、五府に中都(京師)の官吏や京師の作者(工匠)を調省(調整削減)させることを請います(『資治通鑑』胡三省注によると、少府は山海池沢の税を担当し、属官に太官、考工、尚方と上林の十池監がいました。太官は御膳飲食(皇帝の飲食)を担当し、考工は器械(器具)を制作し、尚方は刀剣を作ります。五府は太傅、太尉、司徒、司空、大将軍ですが、胡三省は「当時は大将軍を任命せず、鄧騭が車騎将軍になっていただけである」と解説しています)
また、被災の郡は百姓が凋残(零落衰敗)しているので、恐らく賑給(救済)して足りることではなく(恐非賑給所能勝贍)、たとえその名(救済の名)があっても結局その実がありません(雖有其名終無其実)。征和元年の故事に倣い(征和元年は前92年で、西漢武帝の時代です。『資治通鑑』胡三省は「征和元年にも使者を各地に派遣して民衆を慰安したようだ」と解説しています)、使者を派遣して、符節を持って慰安させ(持節慰安)、特に困乏している者は荊・揚の孰郡(熟郡。豊作の郡)に遷して安置するべきです。今は確かに西屯の役羌族討伐)がありますが、東州の急(『資治通鑑』胡三省注によると、東州は雒陽以東の冀兗諸州です。水旱の害を被りました)を優先するべきです。」
太后はこの意見に従って公田を全て貧民に与えました。
また、すぐに樊準を抜擢して議郎呂倉と共に光禄太夫の職務を代行させました(並守光禄大夫)
 
二月乙丑(二十九日)、樊準を冀州に、呂倉を兗州に派遣して稟貸(救済。食糧を施すこと)させました。そのおかげで流民(災害のため流亡した民)が皆、蘇息(蘇生)できました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀からです。
夏四月甲寅、漢陽城中で火災があり、三千五百七十人が焼死しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
夏、旱害がありました。
五月丙寅(初一日)、皇太后が雒陽の寺(官舍)および若盧獄(少府に属します。『資治通鑑』胡三省注によると、西漢時代に置かれましたが、東漢初期に廃され、和帝によって再設されました。和帝永元九年97年参照)行幸して囚徒を確認・記録しました(録囚徒)
 
雒陽のある囚人は確かに人を殺していないのに拷問を受けて自ら罪を自供しました(被考自誣)。羸困(衰弱)していたため、輿(『資治通鑑』胡三省注によると、「輿」は竹や木を編んで作った人を運ぶ台です)に乗せられて鄧太后に謁見します。
この囚人は吏(獄吏)を畏れて敢えて発言しませんでしたが、去ろうとした時、頭を挙げて何かを訴えようとしました。太后は囚人を観察してそれに気づき(察視覚之)、すぐに呼び戻して事情を問いました。その結果、枉実(冤罪の事実)が詳しく得られます。
太后はすぐに雒陽令を逮捕し、獄に下して罪を償わせました。
太后が帰還して皇宮に入る前に澍雨(時節に応じた雨。旱害を救う雨)が大いに降りました。
 
後漢書孝安帝紀』は「皇太后が洛陽(雒陽)の寺および若盧獄を行幸して囚徒を確認記録(録囚徒)、河南尹、廷尉、卿および官属以下の者にそれぞれ差をつけて賞賜を与えた。即日、雨が降った」と書いています。
資治通鑑』は『皇后本紀上』に従っており、『孝安帝紀』の河南尹等に賞賜を与えたという記述は採用していません。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と資治通鑑』からです。
六月、京師および四十の郡国で大水(洪水)があり、大風が吹いて雹が降りました。
『孝安帝紀』の注によると、雹は芋魁()や雞子()ほどの大きさがあり、風は樹木を抜いて家の屋根を飛ばしました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
秋七月、太白星が北斗に入りました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』からです。
戊辰、(太后)詔を発しました「昔、位に居た帝王は、天命を受けて民を治め(昔在帝王承天理民)、琁機玉衡(天文を観測する道具)を根拠にしない者はなく、七政を整えました(「七政」は日月五星で、五星は辰星、太白、熒惑、歳星、鎮星です。古代は天体の運行が政事に連動していると考えたため、「七政」の動きを観察することで政治を正しました。原文「莫不拠琁機玉衡以斉七政」)。朕は不徳によって大業を遵奉したので、陰陽が差越(秩序を越えて錯乱すること)し、変異が並んで現れ、万民が飢流し、羌貊(少数民族)が叛戾(離反)しました。朝から夜まで克己しながら憂心京京(「憂心京京」は『詩経小雅』の句で、「京京」は憂いる様子です)としています(夙夜克己,憂心京京)。最近、公卿郡国に命じて賢良方正を挙げさせ、遠く求めて広くから選び、不諱の路(遠慮なく発言できる道)を開くことで、至謀(最良の策)を得て不逮の鑒(不足を照らす鏡)とすることを希みました。ところが応じたのは全て循尚浮言(高尚なふりをした内容がない言葉)で、卓爾異聞(卓越した特殊な見解)がありませんでした。よって百僚および郡国の吏人で、道術(学術。治国の術)があって災異陰陽の度(法則)と琁機の数(天文の術)に明習(精通)している者に、それぞれ変を指して(異変の原因を指摘して)報告させなさい。二千石長吏(二千石の高官)詔書を明らかにすることで広く幽隠(名が知られていない者)を招きなさい。朕が親覧し(自ら確認し)、不次(下に置かないこと。破格の対応)によって待遇します(待以不次)。嘉謀を獲ることで、天誡を受け入れることを願います。」
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代154 安帝(四) 鄧騭帰還 108年(2)