東漢時代154 安帝(四) 鄧騭帰還 108年(2)

今回は安帝永初二年の続きです。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
閏月(閏七月)、広川王劉常保(安帝の弟)が死に、子がいなかったため国が廃されました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
癸未(中華書局『白話資治通鑑』は「癸未」を恐らく誤りとしています)、蜀郡徼外(界外)の羌が土地を挙げて内属しました。
『孝安帝紀』の注によると、徼外の羌に属す薄申等八種(族)が衆を率いて投降しました。
 
[十一] 『後漢書孝安帝紀』からです。
九月庚子、(太后)詔を発しました。王国の官属で墨綬以下、郎謁者に至る者の中に(『孝安帝紀』の注によると、王国には秩が比六百石の中大夫、比四百石の謁者、二百石の郎中がいました)、経典に明るくて博士を任せられる者(経明任博士)、郷里に住んでいて廉清孝順の称(名声)があり、才が理人(民を治めること)を任せられる者がいたら、国相が毎年その名を記録し、計(計吏。年末に上京して郡国の状況を報告する官吏)と共に尚書に報告させます。それを元に公府が統一して人選を行い、外補(地方官)を得られるようにしました。
 
[十二] 『後漢書孝安帝紀』からです。
冬十月庚寅、済陰、山陽、玄菟の貧民に食糧を与えて救済しました。
 
[十三] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
車騎将軍鄧騭が征西校尉任尚と従事中郎河内の人司馬鈞に諸郡の兵を率いさせ、先零羌・滇零等の数万人と平襄で戦わせました。
しかし任尚軍が大敗して死者が八千余人に上ります。
羌衆はここから大いに強盛になり、朝廷は制御できなくなりました。
 
湟中の諸県では粟一石が一万銭に高騰し、数え切れないほどの百姓が死亡しました。食糧の輸送も困難を極めます(転運難劇)
 
元左校令(『資治通鑑』胡三省注によると、将作大匠の属官に左右校令各一人がおり、秩は六百石でした。左校令は左工徒を、右校令は右工徒を管理します)河南の人龐参はこれ以前に法に坐して若盧獄で輸作(労役)していました。
その龐参が子の龐俊に上書させました「最近、西州の流民が擾動(混乱動揺)していますが、徵発が絶えず、水潦(大雨。水害)が休まず(止まず)、地力が回復せず、そこに大軍が重なり(重之以大軍)、遠方の守備によって(民を)疲労させ(疲之以遠戍)、農功(農事)が転運によって消され(農業に必要な労働力が輸送のために費やされ。原文「農功消於転運」)(民の)資財が徴発によって尽き、田疇(田地)は墾闢(開墾)できず、禾稼は收入を得られず、手を叩いて困窮し(原文「搏手困窮」。「搏手」は手を叩くことで、無策な状態や怒りを表します)、来秋(翌年の秋)にも望みがなく、百姓は力が尽きてこれ以上の命に堪えられません(百姓力屈不復堪命)。臣の愚見によるなら、今は万里に食糧を運んで遠く羌戎の地に送っていますが(遠就羌戎)、兵をまとめて衆を養い(総兵養衆)、疲れを待った方がいいでしょう。車騎将軍鄧騭はとりあえず振旅(兵を整えて帰還すること)させ、征西校尉任尚を留め、涼州士民を監督して三輔に転居させ(『資治通鑑』胡三省注によると、龐参は涼州を棄てるように主張しました)、傜役を休めることでその時(時機。農時)を助け、煩賦(重税)を止めることでその財を増やし、男は耕種(農耕)、女は織絍(織物)ができるようにし、その後、精鋭を養い(畜精鋭)(敵の)懈沮(怠って勢いがなくなること)に乗じてその不意を突き、不備を攻めれば(出其不意攻其不備)、辺民の仇に報いて奔北(敗北)の恥を雪ぐことができるでしょう。」
この上書が提出された時、ちょうど樊準が龐参を推挙する上書を行いました。
太后はすぐに囚徒の中から龐参を抜擢して謁者に任命し、西に赴いて三輔の諸軍屯を監督させました。
 
十一月辛酉(二十九日)(鄧太后が)詔を発して鄧騭の軍を帰還させました。任尚を留めて隴右の漢陽郡(漢陽郡は元天水郡で、明帝永平十七年・74年に改名されました)に駐屯させ、諸軍を節度(管理)させます(留任尚屯漢陽為諸軍節度)
(鄧太后は)使者を送って鄧騭を迎え入れ、大将軍に任命しました。
鄧騭が雒陽に至ると更に大鴻臚に出迎えさせ、中常侍が郊外で慰労し、王(諸王や公主)以下が道で待ち構えます(候望於道)。寵霊(恩寵栄誉)が顕赫(赫赫。顕著なこと)とし、光(栄光)が都鄙京城と周辺の邑)を震わせました。
 
資治通鑑』胡三省注は「鄧騭は西征して功なく還ったので、罪を認めて自ら降格を求めることで天下に謝罪するべきなのに、勢(威勢)にたよって権力を握り、相応しくない栄寵を受けた。どうして心を安んじられるだろう(於心安乎)。君子(知識人。見識ある者)はここから鄧騭が終わりを全うできないことを知った」と解説しています。
 
[十四] 『後漢書孝安帝紀と『資治通鑑』からです。
先零羌の滇零が自ら天子を称し、北地で武都参狼(『資治通鑑』胡三省注によると、武都に住む羌人の一種です)や上郡西河の諸雑種羌(羌の各族)を招集しました。
 
その後、隴道を断って三輔を寇鈔(侵略略奪)し、東進して趙魏を侵し、更に南下して益州に入り、漢中太守董炳を殺しました。
 
梁慬は詔を受けて金城に駐屯することになっていましたが、羌人が三輔を侵したと聞き、兵を還して攻撃しました。武功、美陽の間(『資治通鑑』胡三省注によると、二県とも扶風に属します)で転戦して連破し、羌人を敗走させます。
羌人は若干退散(撤退離散)しました。
 
[十五] 『後漢書孝安帝紀』からです。
十二月辛卯、東郡、鉅鹿、広陽、安定、定襄、沛国の貧民に食糧を与えて救済しました。
 
[十六] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
広漢塞外の参狼羌が東漢に降りました。
広漢北部を分けて属国都尉を置きました。
資治通鑑』胡三省注によると、この「参狼羌」は「武都参狼」と同族で、広漢塞外に分居していました。
 
[十七] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
この年、十二の郡国で地震がありました。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代155 安帝(五) 売官 109年