東漢時代155 安帝(五) 魯恭の教育 109年(1)

今回は安帝永初三年です。
 
東漢安帝永初三年
己酉 109
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月庚子(初九日)、皇帝が元服の儀式を行い(皇帝加元服、天下に大赦しました。
 
(公主)貴人公卿以下にそれぞれ差をつけて金帛を下賜しました。
また、父の後を継ぐ立場にいる男子および三老孝悌力田に一人当たり二級の爵を、流民で名乗り出て戸籍を欲した者(流民欲占者)には一人当たり一級の爵を与えました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀と『資治通鑑』からです。
騎都尉任仁を派遣して先零羌を討たせました。諸郡の屯兵を指揮して三輔を救わせます。
しかし任仁はしばしば不利になり、当煎羌と勒姐羌が破羌県を攻めて攻略しました。
また、鍾羌も臨洮県を攻めて攻略し、隴西南部都尉を捕らえました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、破羌県は金城県に属します。臨洮県は隴西南部都尉の治所です。
 
[] 『後漢書孝安帝紀からです。
高句驪が使者を送って貢献しました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と資治通鑑』からです。
三月、京師を大饑(大飢饉)が襲いました。
壬辰(初二日)、公卿が宮闕を訪ねて謝罪しました。
安帝が詔を発しました「朕は幼冲(幼年)によって鴻業(大業)を奉承(継承)したが、風化の宣流(教化の宣揚)ができず、陰陽を感逆し(陰陽を侵し)、百姓に飢荒をもたらして互いに噉食(呑み込むこと)させている(至令百姓飢荒更相噉食)。永く悼歎(哀傷嘆息)を抱き、淵水に落ちたようだ。咎は朕躬(朕の身)にあり、群司(群臣)の責(責任)ではない。それなのに誤って罪を認めて自責し、朝廷の不徳を重くしている(更に朝廷の不徳を示している。原文「過自貶引重朝廷之不徳」)。務めて変復(正常に戻すこと)を思い、そうすることで(朕の)不逮(及ばないこと。足りないこと)を助けよ(務思変復以助不逮)。」
 
癸巳(初二日)、詔を発して鴻池を貧民に貸し与えました。
『孝安帝紀』の注によると、鴻池は洛陽東二十里に位置します。民に貸して漁採させました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と資治通鑑』からです。
壬寅(十二日)、司徒魯恭を罷免しました。
 
魯恭は二回公位に就き(和帝永元十三年101年に呂蓋に代わって司徒になり、安帝永初元年107年に梁鮪に代わって司徒になりました)、魯恭に選ばれて召された高第(成績優秀な者)で官位が列卿郡守に至った者は数十人いました。『資治通鑑』胡三省注によると、この「高第」は魯恭の府に属す掾属の中で優秀な者です。
しかし門下の耆生(老いた生徒)には魯恭に推挙されず怨望(怨恨)を抱く者もいました。
それを聞いた魯恭はこう言いました「学んでも探究しようとしないこと、これが私の憂いである(原文「学之不講,是吾憂也」。『論語』の言葉が元になっています)。諸生には郷挙というものがあるではないか(原文「諸生不有郷挙者乎」。魯恭の下で学んでもしも学問を究めることができたら、郷里の推挙があるので、三公の招きを待つ必要はないという意味です)。」
(怨みを抱く者は)結局何も言えず、この事で議論することも無くなりました(原文「終無所言亦不借之議論」。主語がはっきりしないので誤訳かもしれません。あるいは「魯恭は終生、彼等のために推挙しようとせず、このことについて議論することもなかった」という意味かもしれません)
 
学生が魯恭の学問を授かったら、魯恭は必ず徹底して質問を出して追及し(窮核問難)、道が成ってから(学問が成就してから)別れを告げて送り出しました(謝遣之)
魯恭に学んだ者は「魯公の謝(分かれの言葉)と議論はいたずらに得られるものではない(魯公謝與議論不可虚得)」と言いました
 
[] 『後漢書孝安帝紀と『資治通鑑』からです。
夏四月丙寅(初七日)、大鴻臚九江の人夏勤が司徒になりました。
『孝安帝紀』の注によると、夏勤の字は伯宗で、九江郡寿春の人です。



次回に続きます。