庚戌 110年
春正月元日、元会(元旦の朝会)で音楽を廃止し(徹楽)、朝廷に車も並べませんでした(不陳充庭車)。
『資治通鑑』胡三省注によると、大朝会の度に乗輿(皇帝)の法物・車輦(皇帝の車や祭祀・儀仗に使う器物)を庭に並べることになっていましたが、飢饉のためこの年は中止しました。
帝室も倹約に努める必要があったからです。
辛卯、安帝が詔を発しました。三輔が続けて寇乱に遭い、人庶(民衆)が流亡離散しているため、三年間の逋租(未納の税)、過更(兵役の代わりに払う税)、口筭(人頭税。『孝安帝紀』の注によると、十五歳から五十六歳まで一人当たり一筭の税を納めました。一筭は百二十銭です)、芻稾(飼料)を免除しました(除三年逋租過更口筭芻稾)。
また、上郡の貧民を救済するため、貧困の程度に応じて食糧を提供しました。
鄧騭は高位にいる間に多くの賢士を推挙することができました。何熙、李郃等を薦めて朝廷に列させ(官職に就かせ)、弘農の人・楊震、巴郡の人・陳禅等を招いて幕府に置いたため、天下がこれを称賛しました。
楊震は孤貧(身寄りがなくて貧困)でしたが学問を好み、欧陽『尚書』(西漢の欧陽生が伝えた『尚書』)に精通しました。
通達博覧(道理に通じていて博学なこと)だったため、諸儒は楊震を「関西孔子楊伯起」と呼びました(伯起は楊震の字で、弘農は函谷関の西に位置するので、「関西の孔子」と呼ばれました)。
(楊震は弟子に)二十余年も教授しましたが、その間、州郡の礼命(『資治通鑑』胡三省注によると、「礼」は「延聘(招聘)の礼」、「命」は「辟置(任用)の命」です)に答えませんでした。
人々は楊震が出仕するには既に遅すぎると言いましたが(衆人謂之晚暮)、楊震の志はますます厚くなりました。
楊震の名声を聞いた鄧騭が招いて幕僚にした時は既に五十余歳になっていました。
楊震が東莱郡に向かう時、昌邑を経由しました(『資治通鑑』胡三省注によると、昌邑県は山陽郡に属します)。
当時の昌邑令は王密といい、楊震が荊州刺史だった時、茂才に挙げた人物です。
夜、王密が懐に金十斤を抱いて楊震に贈りに来ました。賄賂です。
楊震が問いました「故人(旧知。ここでは楊震自身を指します)は君を知っているのに、君は故人を知らない。何故だ(故人知君,君不知故人,何也)?」
王密が言いました「暮夜(夜)なので知る者はいません。」
楊震が言いました「天が知り、地が知り、我が知り、子(汝)が知っている。なぜ知る者がいないと言うのだ(天知地知我知子知,何謂無知者)。」
王密は慚愧して退出しました。
性格が公廉(公正廉潔)で、子や孫は常に蔬食、歩行しています(魚肉を食べず、車騎を使いませんでした)。
故旧(旧知。旧友)のある者が楊震に産業を始めるように勧めました。子孫に財を残すためです。
しかし楊震は同意せずこう言いました「後世(の人)に清白な吏の子孫であると称えさせ、それを遺産として残すことができれば充分ではないか(以此遺之不亦厚乎)。」
張伯路が再び郡県を攻撃して守令(太守・県令)を殺しました。党衆が徐々に強盛になります。
安帝は詔を発して御史中丞・王宗を派遣しました。符節を持って(持節)幽・冀州諸郡の兵合わせて数万人を徴発させます。
また、宛陵令・扶風の人・法雄(法が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、斉襄王・法章の後代で、秦が斉を滅ぼしてから、子孫が田姓を名乗れなくなったため、「法」を氏にしました)を召して青州刺史に任命し、王宗と協力して張伯路を討伐させました。
『後漢書・孝安帝紀』の記述は若干異なります。以下、『孝安帝紀』からです。
海賊・張伯路が再び勃海・平原の劇賊(大盗。勢力が大きい賊)・劉文河、周文光等と共に厭次を攻撃し、県令を殺しました。
朝廷は御史中丞・王宗を派遣し、青州刺史・法雄を監督して討破させました。
その間に度遼将軍・梁慬と遼東太守・耿夔が属国故城で南匈奴の別将を攻撃して斬ります。
『資治通鑑』胡三省注によると、西河美稷県は属国都尉が治めていました。よって、属国故城は美稷県内にあったようです。
南単于が自ら東漢軍を迎え撃ちましたが、梁慬等が再び破りました。
『資治通鑑』胡三省注によると、「虎沢」は「武沢」と書かれることもあります。これは唐代に入ってから国諱の「武(唐太祖・李虎の名。唐を建国した李淵は李虎の孫です)」を避けたからです。
丙午(二十一日)、安帝が詔を発し、百官および州郡県の奉(俸禄)をそれぞれ差をつけて減らしました。
二月丁巳(初二日)、九江の貧民に食糧を与えて救済しました。
次回に続きます。