東漢時代158 安帝(八) 虞詡 110年(2)

今回は東漢安帝永初四年の続きです。
 
[] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
滇零が兵を送って褒中を侵しました。
資治通鑑』胡三省注によると、褒中県は漢中郡に属します。かつての褒国です。
 
漢中太守鄭勤が褒中に移って駐屯しました。
 
任尚軍は久しく出征していましたが、功績がありませんでした。その間、民が農桑を廃れさせます(民が従軍したため、各地で農業が廃れました)
安帝は任尚に詔を発し、吏民を率いて長安に戻って駐屯させました。
南陽潁川汝南の吏士は解散して故郷に還されます。
 
乙丑(初十日)、西京西漢の三輔都尉に倣って、長安に京兆虎牙都尉を、雍に扶風都尉を置きました。『資治通鑑』胡三省注によると、「西京三輔都尉」は京兆の京輔都尉、馮翊の左輔都尉、扶風の右輔都尉を指します。
当時は涼州が羌と近接しており、しばしば三輔が侵されていたため、京兆虎牙都尉と扶風都尉が兵を率いて園陵を護衛することになりました。扶風都尉は雍にいたため、俗称を「雍営」といいました。
 
謁者龐参が鄧騭を説得して言いました「辺郡で自存できない者を遷し、三輔に入れて居住させるべきです。」
納得した鄧騭は涼州を棄てて北辺に力を集中させようと欲し、公卿を集めて討議しました。
鄧騭が言いました「例えばもし衣服が破れたとして、一着を使ってもう一着を補えば、まだ完全を保つことができる(譬若衣敗壊,一以相補猶有所完)。しかしもしそうしなかったら二着とも保てない(若不如此将両無所保)。」
資治通鑑』には公卿の反応が書かれていませんが、『後漢書虞傅蓋臧列伝(巻五十八)』は「議者は皆賛同した(議者咸同)」と書いています。
 
郎中陳国の人虞詡が太尉張禹に言いました「大将軍の策を不可とする理由が三つあります(若大将軍之策不可者三)。先帝は土字(境域)を開拓し、劬労の後に定めました(労苦の後に辺境を平定しました)。しかし今、小費(わずかな費用、苦労)を畏れて全てを棄てようとしています(憚小費,挙而棄之)。これが不可とする一つ目の理由です(此不可一也)涼州を既に棄てたら三輔が塞となり(『資治通鑑』胡三省注によると、隴西安定北地は涼州に属します。涼州を棄てたら三輔が国境になります)、園陵が外に曝されます(園陵単外)。これが不可とする二つ目の理由です(此不可二也)。喭(諺)にこうあります『関西は将を出し、関東は相を出す(原文「関西出将,関東出相」。『資治通鑑』胡三省注によると、秦漢以来、山西で将が生まれて山東で相が生まれました。秦代は郿の人白起、頻陽の人王翦がおり、漢代は義渠の人公孫賀、傅介子、成紀の人李広、李蔡、上邽の人趙充国、狄道の人辛武賢がいました。全て名将です。丞相は蕭何、曹参、魏相、邴吉、韋賢、平当、孔光、翟方進等です)』。烈士武臣の多くは涼州から出ており、土風(風俗)は壮猛で兵事に習熟しています(便習兵事)。今、羌胡が敢えて三輔を占拠して心腹の害になろうとしないのは、涼州が後ろにあるからです。涼州の士民が武器を手にして矢石を被りながら陣を構え(推鋒執鋭,蒙矢石於行陳)、父が前で死んでも子が後ろで戦い、反顧(後退)の心がないのは、漢に臣属しているからです。今、これを出して放棄し、割いて棄ててしまったら(推而捐之割而棄之)、民庶(民衆)は郷土に安んじて移住を難とするものなので(安土重遷)、必ず首を延ばして(東方の漢を眺め見て)怨みを抱き(引領而怨)、『中国が我々を夷狄に棄てた』と言うでしょう。たとえ義に赴いて善に従う人でも、恨みを抱かずにはいられません不能無恨)。もし(彼等が)突然謀を起こし、天下の饑敝(飢餓疲弊)を利用して海内の虚弱に乗じ、豪雄が互いに集まり、能力を量って帥を立て(量材立帥)、氐羌を駆って前鋒とし、席巻して東に向かったら、たとえ賁(古代の勇士孟賁と夏育)を卒とし、太公呂尚を将にしても、恐らくまだ抵抗するには足りないでしょう(猶恐不足当禦)。このようになったら(如此)、函谷以西の園陵旧京は二度と漢が所有できなくなります(非復漢有)。これが不可とする三つ目の理由です(此不可三也)。議者は衣服を補うことに喩えてまだ完全な衣服を保てると考えていますが(喩以補衣猶有所完)、詡(私)は疽(できもの)が侵食して徐々に拡大し、際限が無くなることを恐れます(恐其疽食侵淫而無限極也)。」
 
後漢書李陳龐陳橋列伝(巻五十一)』では永初四年(本年)に羌寇が盛んになったため龐参が涼州を棄てるように鄧騭に勧めています。
後漢書虞傅蓋臧列伝(巻五十八)』を見ると、虞詡は太尉李脩の府に招聘されて郎中に任命されてから、李脩に上述の進言をしていますが、李脩が太尉になるのは翌年(安帝永初五年111年)の事で、本年は張禹が太尉です。
資治通鑑』胡三省注によると、袁宏の『後漢紀』では「永初四年春に匈奴が常山を侵した」という記述の下に「鄧騭が涼州を棄てようと欲し、虞詡が太尉張禹を説得した」と書いています。
資治通鑑』は『後漢紀』に従い、本年、虞詡が張禹に進言したとしています。
 
また、胡三省は「この後、北宮伯玉、王国、閻忠、馬騰韓遂の変は全て虞詡の言の通りとなった」と解説しています。
 
本文に戻ります。
張禹が言いました「わしの考えはここに及ばなかった(吾意不及此)。子(汝)の言がなかったら国事を壊すところだった(微子之言幾敗国事)。」
虞詡がこの機に言いました「涼土の豪桀を收羅(召集)し、牧守の子弟を朝(朝廷)に招き、諸府に命じてそれぞれ数人を任用させれば(令諸府各辟数人)、外は(子弟を)勧厲(激励。奨励。ここでは官位を与えて優遇することを意味します)することでその功勤(父兄の功労)に答え、内は拘致(拘束)によってその邪計を防ぐことができます(人質にできます)。」
張禹はこの進言に賛同し、改めて四府(大将軍太尉司徒司空)を集めました。
皆、虞詡の意見に従います。
朝廷は西州の豪桀を召して掾属に任命し、牧守や長吏の子弟を郎にして安慰(按撫慰労)しました。
 
この事があってから鄧騭は虞詡を憎むようになり、吏法によって中傷しようと欲しました。
ちょうど朝歌の賊甯季等数千人が長吏を攻めて殺し、連年屯聚(集結)して州郡では制御できなくなっていました。
そこで鄧騭は虞詡を朝歌長に任命しました。
 
故旧(旧知。旧友)が皆、虞詡を弔いましたが、虞詡は笑ってこう言いました「事を行って難から逃げないのは臣下の職責である(事不避難,臣之職也)。槃根錯節(根や枝が絡まっている様子。複雑困難な事の比喩です)に遇わなかったら利器(鋭利な武器や工具)を識別できない(不遇槃根錯節無以別利器)。これは私が功績を立てる時だ(此乃吾立功之秋也)。」
 
虞詡は到着するとすぐに河内太守馬稜を謁見しました。
馬稜が言いました「君は儒者なので廟堂(朝廷)で謀謨(画策)するべきなのに朝歌にいる。君のために甚だ憂いる。」
虞詡が言いました「この賊は犬や羊が集まって(犬羊相聚)、温飽を求めているだけです。明府(太守)が憂いとしないことを願います(願明府不以為憂)。」
馬稜が問いました「なぜそう言えるのだ(何以言之)?」
虞詡が言いました「朝歌は韓魏の郊であり、太行(山)を後ろにし(背太行)黄河に臨んでいます。敖倉との距離は百里を越えず、青冀の民で流亡する者が万を数えるのに、賊は倉を開いて衆を招き、庫兵(武庫の兵器)を奪い、成皋を守り、天下の右臂(重要な部分)を断つことを知りません。だから憂いる必要がないのです(此不足憂也)。しかし今はその衆が新盛なので(強盛になったばかりなので)、鋒を争うのは困難です(勝敗を争うのは困難です。原文「難與争鋒」)。戦とは策謀を厭わないものです(原文「兵不厭権」。戦とは策謀詐術によって勝利を得るものだという意味で、「兵不厭詐」ともいいます)。轡策(束縛。恐らくここでは囚人の意味です)に対して寛大になることを願います(願寬假轡策)(太守が)拘閡(拘束。逮捕)を命じないだけで充分です(勿令有所拘閡而已)。」
資治通鑑』胡三省注が最後の部分について解説しています。虞詡は度外の人(法外の人。法を犯した者)を使って群盗を制御することにしました。郡守(太守)が普段の常識に則って文法(法律)によって拘束することを恐れたため、事前に馬稜に進言しました。
 
虞詡は着任すると三科(三種類の等級)を設けて壮士を募集し、掾史以下の官吏にそれぞれ知っている者を挙げさせました。攻劫の者(攻撃略奪した者。ここでは恐らく人を襲って強盗した者です)を上とし、傷人偸盗の者(人を傷つけたり窃盗した者)を次とし、家業に就かない者(職に就いていない者。恐らく遊侠の者です)を下とし、百余人が集められます。
資治通鑑』胡三省注によると、県には廷掾がいました。郡の五官掾のようなもので、郷部(郷官部吏。下級官吏)を監督し、春夏は「勧農掾」に、秋冬は「制度掾」になりました。「史」は獄史、佐史、斗食、令史、掾史、幹小史等を指します。
 
虞詡は宴を開いて百余人をもてなし、全ての罪を赦しました。
その後、彼等を賊の中に入れて劫掠(略奪)に誘わせました。伏兵を置いて賊が出て来るのを待ちます。
誘い出された賊の数百人が殺されました。
また、秘かに裁縫ができる貧人を賊の中に送りました。賊は彼等を雇って衣服を作らせます。裙(もすそ。下半身の衣服)が采線(彩線。色鮮やかな糸)で縫われていたため、市里(街)に出る者がいるとすぐ官吏に捕えられました。
そのため賊は驚いて四散し、皆、(虞詡の)神明を称えました。こうして県境(県内)が全て平定されます。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』からです。
乙亥(二十日)、安帝が詔を発し、建初(章帝の年号)以来、祅言(妖言)やその他の過失で罪を問われて辺境に遷された者をそれぞれ故郷の郡に帰らせました。
また、官の奴婢に落とされた者を免じて庶人にしました。
 
[十一] 『後漢書孝安帝紀』からです。
安帝が詔によって謁者劉珍および五経博士に東観の五経、諸子、伝記、百家の芸術(学術)を校定させました。劉珍等は脱誤を整理して文字を訂正します。
『孝安帝紀』の注によると、洛陽(雒陽)の南宮に東観がありました。
 
 
 
次回に続きます。

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