東漢時代159 安帝(九) 南単于投降 110年(3)

今回で東漢安帝永初四年が終わります。
 
[十二] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月、何熙の軍が五原曼柏に到りましたが、突然の病のため(暴疾)前進できなくなりました。
そこで龐雄と梁慬、耿种を派遣し、歩騎一万六千人を率いて虎沢(南単于を攻撃させました。
漢軍は営を連ねて徐々に前に進みます。
 
単于は諸軍が並進するのを見て大いに恐怖し、後悔して韓琮を譴責しました(顧譲韓琮)「汝は漢人が死に尽くしたと言ったが、今これは何の人だ(なぜこれほどの兵がいるのだ。原文「今是何等人也」)!」
単于は使者を送って投降を乞い、受け入れられました。
 
単于は帽子を脱いで裸足になり(脱帽徒跣)、龐雄等を拝して自分が死罪に当たると述べました(拝陳道死罪)
東漢は南単于を赦して以前と同じように待遇します。
単于もこれまでに奪った漢民の男女や羌人が奪って匈奴に売った者合わせて一万余人を漢に還しました。
 
ちょうど何熙が死んだため、朝廷は梁慬を度遼将軍に任命しました。
龐雄は帰還してから大鴻臚になりました。
 
[十三] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
先零羌が再び褒中を侵しました。
 
漢中太守鄭勤が攻撃しようとしましたが、主簿段崇が諫めて言いました「虜は勝ちに乗じているので鋒(鋭鋒)に当たることはできません。堅守して(時機を)待つべきです。」
鄭勤は諫言に従わず出撃して大敗しました。死者が三千余人に上ります。
段崇と門下史王宗、原展(『資治通鑑』胡三省注によると、郡門下には掾と史がいました。原氏は西周原伯の後代です。また、晋の卿先軫が原を邑にしたため、子孫がそれを氏にしました。孔子の弟子には原憲がいました)は自分の身をもって敵の武器に抵抗し(以身扞刃)、鄭勤と共に死にました。
 
金城郡府が襄武に遷されました。
資治通鑑』胡三省注によると、襄武県は隴西郡に属します。
 
[十四] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
戊子(初四日)、杜陵園西漢宣帝の陵園)で火災がありました。
 
[十五] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
癸巳(初九日)、九つの郡国で地震がありました。
 
[十六] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、六つの州で蝗害がありました。
『孝安帝紀』の注によると、司隸と豫冀州です。
 
[十七]後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
丁丑(二十三日)、天下に大赦しました。
 
[十八] 『資治通鑑』からです。
王宗と法雄が張伯路と連戦し、張伯路は破れて逃走しました。
ちょうど赦(赦書。張伯路等の罪を赦す書)が届きましたが、張伯路は朝廷の軍が武装を解かないため、投降しようとしませんでした。
 
王宗が刺史や太守(『資治通鑑』胡三省注によると、刺史は青州刺史、太守は青州諸郡の太守です)を招いて共に討議しました。
皆、徹底的に攻撃するべきだと考えましたが(以為当遂撃之)、法雄がこう言いました「いけません(不然)。兵(兵器)は凶器であり、戦は危険な事です(兵凶器,戦危事)。勇は賴ることができず、勝利は必ず得られるものではありません(勇不可恃,勝不可必)。賊がもし船に乗って海を渡り(乗船浮海)、深く遠島に入ったら、攻撃が容易ではなくなります(攻之未易也)。赦令に及んだので、とりあえず兵を解いてその心を慰誘(慰撫勧誘)するべきです。そうすれば(賊は)必ず解散することになります(勢必解散)。その後にこれを図れば、戦わずに平定できます。」
王宗はこの進言に賛同し、すぐ兵を解きました。
それを聞いた張伯路等は大喜びして奪った人を還しました。
 
ところが東莱の郡兵だけが武装を解かなかったため、張伯路等は再び驚恐して遼東に遁走し、海上の島に留まりました(法雄の進言の通りになりました)
 
[十九] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月乙酉(初三日)、三郡で大水(洪水)がありました。
 
[二十] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
騎都尉任仁が羌と戦って累敗(連敗)しました(安帝永初三年109年参照)。しかも兵士が放縦だったため、任仁は檻車で呼び戻され、廷尉に送られて獄死しました。
 
護羌校尉段禧も死にました。
朝廷は以前、護羌校尉だった侯霸(安帝永初二年108年参照)を再び任用し、張掖に拠点を移しました。
資治通鑑』胡三省注によると、西漢宣帝が護羌校尉を置いた時は金城郡令居(地名)を拠点にしました。
その後、東漢が河隴(河西隴右)を平定すると治所を安夷県に遷し、更に安夷から臨羌に遷しました。
しかし羌族が叛して臨羌に住めなくなったため、侯霸は隴西郡の狄道(地名)を拠点にしました。今回、隴西も敗れたため、再任した侯霸が黄河を渡って遥か西の張掖に遷りました。
 
[二十一] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月甲申(初三日)益州郡で地震がありました。
 
[二十二] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
太后(鄧氏)の母新野君が病を患いました。
後漢書皇后紀上』によると、鄧太后の母は陰氏といい、光烈皇后(陰麗華)の従弟女(従妹)です。また、『資治通鑑』胡三省注によると、婦人が君に封じられたら儀礼は公主と同等になりました。
 
太后が新野君の邸宅を行幸して連日宿泊しましたが、三公が上奏文を提出して強く諫めたため、皇宮に還りました。
 
冬十月甲戌(二十三日)、新野君が死にました。
(鄧太后は)司空に喪事を監督させ(護喪事)儀礼を東海恭王劉彊光武帝の元太子。明帝永平元年58年参照)と同等にしました。
『孝安帝紀』の注によると、新野君に玄玉(玉器)赤紱(赤綬)と賻銭(死者を弔う金品)三千万、布三万匹を下賜しました。
 
鄧騭等が引退して喪に服すことを乞いました(乞身行服)。鄧太后は同意しようとせず、曹大家(班昭)に意見を求めました。
曹大家が上書して言いました「妾(私)が聞くに、謙譲の風は徳の最も大きなものです(謙譲之風徳莫大焉)。今、四舅(鄧騭、鄧悝、鄧弘、鄧閶)は深く忠孝を持ち、自ら身を引いて退こうとしていますが(引身自退)、方垂(辺境)がまだ静まっていないため、太后は)拒んで許しませんでした。しかしもしも後に毫毛(わずかな過失)があって今日に加えられたら(後にわずかな過失を犯して今日の美徳を覆い隠すことになったら)、推譲の名(謙譲の名声)が再び得られなくなるのではないかと誠に恐れます。」
太后は鄧騭等の乞いに同意しました。鄧騭が大将軍の職を解かれます。
 
後に喪が除かれると、(鄧太后は)詔を発して鄧騭を復帰させ、朝政の輔佐を命じて改めて前封を授けようとしました(安帝永初元年107年に鄧騭等四人を封侯しようとしましたが、四人とも辞退しました。今回改めて封侯することにしました)。しかし鄧騭等が叩頭して固辞したため中止しました。
但し四人とも「奉朝請(春と秋の朝会に出席すること)」の特権を与え(並奉朝請)、位を三公の下、特進や諸侯の上とし、国に大議(大事)があったら朝堂を訪ねて公卿と参謀(参議)させることにしました。
 
[二十三] 『資治通鑑』からです。
太后が陰后の家属に詔を発し、全て故郡(故郷の郡)に帰らせて資財五百余万を還しました。
和帝永元十四年102年)、和帝の皇后陰氏が罪に坐して憂死し、家属が日南郡比景に遷されましたが、今回、故郷に帰ることが許されました。『資治通鑑』胡三省注によると故郷は南陽です。
 
 
 
次回に続きます。