東漢時代159 安帝(九) 南単于投降 110年(3)
今回で東漢安帝永初四年が終わります。
三月、何熙の軍が五原曼柏に到りましたが、突然の病のため(暴疾)前進できなくなりました。
漢軍は営を連ねて徐々に前に進みます。
南単于は使者を送って投降を乞い、受け入れられました。
ちょうど何熙が死んだため、朝廷は梁慬を度遼将軍に任命しました。
龐雄は帰還してから大鴻臚になりました。
先零羌が再び褒中を侵しました。
漢中太守・鄭勤が攻撃しようとしましたが、主簿・段崇が諫めて言いました「虜は勝ちに乗じているので鋒(鋭鋒)に当たることはできません。堅守して(時機を)待つべきです。」
鄭勤は諫言に従わず出撃して大敗しました。死者が三千余人に上ります。
段崇と門下史・王宗、原展(『資治通鑑』胡三省注によると、郡門下には掾と史がいました。原氏は西周原伯の後代です。また、晋の卿・先軫が原を邑にしたため、子孫がそれを氏にしました。孔子の弟子には原憲がいました)は自分の身をもって敵の武器に抵抗し(以身扞刃)、鄭勤と共に死にました。
金城郡府が襄武に遷されました。
『資治通鑑』胡三省注によると、襄武県は隴西郡に属します。
夏四月、六つの州で蝗害がありました。
王宗と法雄が張伯路と連戦し、張伯路は破れて逃走しました。
皆、徹底的に攻撃するべきだと考えましたが(以為当遂撃之)、法雄がこう言いました「いけません(不然)。兵(兵器)は凶器であり、戦は危険な事です(兵凶器,戦危事)。勇は賴ることができず、勝利は必ず得られるものではありません(勇不可恃,勝不可必)。賊がもし船に乗って海を渡り(乗船浮海)、深く遠島に入ったら、攻撃が容易ではなくなります(攻之未易也)。赦令に及んだので、とりあえず兵を解いてその心を慰誘(慰撫勧誘)するべきです。そうすれば(賊は)必ず解散することになります(勢必解散)。その後にこれを図れば、戦わずに平定できます。」
王宗はこの進言に賛同し、すぐ兵を解きました。
それを聞いた張伯路等は大喜びして奪った人を還しました。
秋七月乙酉(初三日)、三郡で大水(洪水)がありました。
騎都尉・任仁が羌と戦って累敗(連敗)しました(安帝永初三年・109年参照)。しかも兵士が放縦だったため、任仁は檻車で呼び戻され、廷尉に送られて獄死しました。
護羌校尉・段禧も死にました。
朝廷は以前、護羌校尉だった侯霸(安帝永初二年・108年参照)を再び任用し、張掖に拠点を移しました。
冬十月甲戌(二十三日)、新野君が死にました。
曹大家が上書して言いました「妾(私)が聞くに、謙譲の風は徳の最も大きなものです(謙譲之風徳莫大焉)。今、四舅(鄧騭、鄧悝、鄧弘、鄧閶)は深く忠孝を持ち、自ら身を引いて退こうとしていますが(引身自退)、方垂(辺境)がまだ静まっていないため、(太后は)拒んで許しませんでした。しかしもしも後に毫毛(わずかな過失)があって今日に加えられたら(後にわずかな過失を犯して今日の美徳を覆い隠すことになったら)、推譲の名(謙譲の名声)が再び得られなくなるのではないかと誠に恐れます。」
鄧太后は鄧騭等の乞いに同意しました。鄧騭が大将軍の職を解かれます。
後に喪が除かれると、(鄧太后は)詔を発して鄧騭を復帰させ、朝政の輔佐を命じて改めて前封を授けようとしました(安帝永初元年・107年に鄧騭等四人を封侯しようとしましたが、四人とも辞退しました。今回改めて封侯することにしました)。しかし鄧騭等が叩頭して固辞したため中止しました。
但し四人とも「奉朝請(春と秋の朝会に出席すること)」の特権を与え(並奉朝請)、位を三公の下、特進や諸侯の上とし、国に大議(大事)があったら朝堂を訪ねて公卿と参謀(参議)させることにしました。
次回に続きます。