東漢時代161 安帝(十一) 滇零の死 112~113年
今回は東漢安帝永初六年と七年です。
東漢安帝永初六年
壬子 112年
春正月甲寅(十一日)、詔を発しました(『後漢書・皇后紀上』を見ると、鄧太后の詔のようです)「新味を供薦(進貢)する時、多くが時節に反しており(多非其節)、あるいは熱して無理に熟させ(原文「鬱養強孰」。『資治通鑑』胡三省注によると、土室に火を溜めて温度を上昇させ、強制的に植物を成長させるという方法です。太官園では冬に葱・韭・菜茹(野菜)を植えたら屋廡(屋根)で覆って昼夜とも火を焚き、室温を上げて育てました)、あるいは萌芽の状態で掘り起こし(穿掘萌芽)、味が至っていないのに小さいうちから生長を止められている(味無所至而夭折生長)。これが時に順じて物を育てるということであろうか(豈所以順時育物乎)。『伝』はこう言っている『その時の物でなければ食べない(原文「非其時不食」。『論語』に「不時不食(その時でなければ食べない)」とあり、『漢書・循吏伝(巻八十九)』でも召信臣が「不時之物有傷於人(時節に合わない物は人を傷つけることになる)」と言っています)。』今後、陵廟への奉祠(祭祀。奉納)および皇室に提供する物(奉祠陵廟及給御者)は全て時を待って(熟してから)献上させることにする。」
この詔によって二十三種の貢物が減らされました。
三月、十州で蝗害がありました。
己卯(初七日)、太常・劉愷を司空にしました。
五月、旱害に襲われました。
丙寅(二十五日)、安帝が詔を発し、中二千石以下、黄綬を持つ官吏まで全ての秩を元に戻しました。
安帝永初四年(110年)に百官および州郡県の俸禄が減らされましたが、今回元に戻されました。
「還贖」は贖罪のために納めた金銭を返却することなので、「全ての秩を戻して贖罪した金銭を返却し、それぞれ差をつけて爵位を与えた」という意味になります。贖罪の金銭を返却したのではなく、減俸した期間の差額を与えたのかもしれません。
六月壬辰(二十一日)、豫章員谿原山が崩れました。
原文は「豫章員谿原山崩」で、豫章は郡です。恐らく「豫章郡に属す員谿の原山が崩れた」のだと思います。
侍御史・唐喜を派遣して漢陽の賊・王信を討伐させました。唐喜が王信を破って斬ります。
杜季貢は逃亡して滇零を頼りました(滇零は安帝永初二年・108年に天子を称しました)。
この年、滇零が死んで子の零昌が立ちました。
零昌はまだ年少だったため、同種(同族)の狼莫が零昌のために計策を立てました。杜季貢を将軍に任命し、丁奚城に別れて駐留させます。
東漢安帝永初七年
癸丑 113年
『孝安帝紀』の注によると、『東観漢紀』、『続漢書』、袁山松の『後漢書』、謝沈の『後漢書』、『古今注』とも「六年正月甲寅、宗廟を拝謁した」と書いているので、范瞱の『後漢書』が「七年(本年)」に書いているのは恐らく誤りです。
夏四月乙未(二十九日)、平原王・劉勝(懐王)が死にました。劉勝は和帝の子で、殤帝の兄です。
丙申晦、日食がありました。
五月庚子、京師で大雩(雨乞いの儀式)を行いました。
秋、護羌校尉・侯霸、騎都尉・馬賢が安定で先零の別部・牢羌を撃ち、首虜(斬首・捕虜)千人を得ました。
蝗害に襲われました。
八月丙寅、京師で大風が吹き、蝗蟲が飛んで洛陽(雒陽)を越えていきました。
詔を発して民に爵位を下賜しました。
郡国で蝗のために十分の五以上の作物を損なった者は本年の田租を徴収しないことにし、十分の五に満たない者は実情に合わせて免除しました。
また、川沿いの県から穀物を調達して敖倉に運びました。
次回に続きます。