東漢時代163 安帝(十三) 115年(1)
今回は東漢安帝元初二年です。三回に分けます。
東漢安帝元初二年
乙卯 115年
蜀郡の青衣道夷が奉献して内属しました。
かつて西門豹が漳水を分けて造った支渠(本流から分けて造った水路)を修理し、民田に灌漑しました。
西門豹は戦国時代・魏国に仕えた名臣で、鄴令になった時、十二渠(水路)を築いて灌漑を行いました。
二月戊戌、中謁者を派遣し、京師で客死して家属がいない者および棺椁(棺)が朽敗(腐朽破損)した者を收葬(棺に納めて埋葬すること)して、全て祭祀を設けました。
家属がいても貧困なため葬儀を行えない者には一人当たり銭五千を下賜しました。
辛酉、三輔、河内、河東、上党、趙国、太原に詔を発し、それぞれ旧渠を修理して水道を通させ、公私の田疇(田地)に灌漑しました。
三月癸亥、京師で大風が吹きました。
この春、護羌校尉・龐参が恩信によって諸羌を誘いました。号多等が部衆を率いて投降します。
龐参は号多等を京師に送って宮闕を訪ねさせました。
朝廷は号多に侯印を下賜して還らせます。
龐参は治所を張掖から令居に戻し(安帝永初四年・110年参照)、河西の道を開通させました。
夏四月丙午(二十一日)、貴人・滎陽の人・閻氏を皇后に立てました。
劉保は後に即位して順帝になります。
五月、京師を旱害が襲い、河南や十九の郡国を蝗害が襲いました。
『資治通鑑』胡三省注は「河南」を「京師」と解説しています。
甲戌、安帝が詔を発しました「朝廷が不明なため庶事(各種の政務)が中(中庸)を失い、災異が止まず、憂心悼懼(恐懼)している。蝗害を被って以来、今で七年になるが、州郡が隠匿して(被害は)頃畒(一頃一畒。わずかな範囲)だけだと言っている。今、群飛して天を覆い、広遠に害を為しているが、言っていることと見ていることが符合しているのか(所言所見寧相副邪)。三司(三公)の職は内外を監督するものだが(内外是監)、報告することも糾弾して正すこともない(既不奏聞又無挙正)。天災が至重(重大)になっており、欺瞞の罪は大きい(欺罔辠大)。今は盛夏の時に当たるので、暫くまた假貸(寛恕)して今後を観察する(原文「且復假貸以観厥後」。『孝安帝紀』の注によると、盛夏は刑罰を加えることができないので、暫く寛恕して様子を観ることにしました)。務めて灾眚(災害。禍患)を消救(消去)して黎元(民衆)を安輯(按撫)せよ。」
六月丙戌(初二日)、太尉・司馬苞が死にました。
『孝安帝紀』の注によると、司馬苞は太尉になってから、常に麤飯(粗飯)を食べ、布衣を身に着け、妻子が官舍を訪ねることもありませんでした(不歴官舎)。この頃、司徒・楊震が樊豊等に讒言され、司馬苞も巻き込まれたため、司馬苞は引退を乞いましたが(乞骸骨)、批准される前に病で死にました。
洛陽(雒陽)新城の地が裂けました。
秋七月辛巳(二十八日)、太僕・泰山の人・馬英を太尉にしました。
『孝安帝紀』によると、馬英の字は文思といい、兗州蓋県の人です。
蓋県は泰山郡の県で、泰山郡は兗州に属します。
九月、鮮卑が夫犂営を攻めて県令を殺しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、無慮県は遼東郡、または遼東属国に属します。
『後漢書・孝安帝紀』と『後漢書・烏桓鮮卑列伝(巻九十)』の注は「夫犂県は遼東属国に属す」と書いていますが、胡三省は「二つの『漢志』(『漢書・地理志』と『後漢書・郡国志』)を見ても、遼東郡と遼東属国には夫犂県がない。しかしここに『県令を殺した』と書かれているので、かつて(夫犂営)は県だったのだろう。李賢(『後漢書』の注者)が何の書を根拠にしたのかは分からない」と解説しています。
壬午晦、日食がありました。
尹就が羌党・呂叔都等を撃ち、蜀の人・陳省、羅横が募集に応じて呂叔都を刺殺しました。
二人とも封侯のうえ金銭を下賜されました。
次回に続きます。