東漢時代167 安帝(十七) 袁敞の死 117年

今回は安帝元初四年です。
 
東漢安帝元初四年
丁巳 117
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
春二月乙巳朔、日食がありました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀と『資治通鑑』からです。
乙卯(十一日)、天下に大赦しました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
壬午(十八日)、武庫で火災がありました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
任尚が当闐種羌(当闐種族の羌人)楡鬼等を派遣して杜季貢を刺殺しました。
東漢は楡鬼を破羌侯に封じました。
 
[] 『後漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
司空袁敞は廉勁(剛直)な性格で、権貴におもねらなかったため、鄧氏の旨意に合いませんでした。
この頃、尚書張俊が私書を袁敞の子袁俊に送りました。それを怨家(怨む者)が密告します(封上之)
 
夏四月戊申(初五日)、袁敞が罪に坐して策免され、自殺しました。
張俊等も獄に下されて死刑の判決が出ます。しかし張俊が上書して訴えたため、刑に臨んだ時、鄧太后が詔を発して死罪から刑を減らしました(以減死論)
 
以下、『後漢書袁張韓周列伝(巻四十五)』の本文と注からです。
張俊は蜀郡の人です。賢才と能力があったため兄張龕とともに尚書郎になり、まだ年が若くて鋭気を奮わせていました(年少勵鋒気)
郎の朱済と丁盛が行いを修めなかったため(立行不脩)、張俊が上奏して弾劾しようとしました。それを聞いた二人は恐れを抱き、郎の陳重と雷義を通して張俊に赦しを請いましたが、張俊は聞き入れませんでした。そこで朱済等は侍史に賄賂を贈り、張俊の欠点を求めさせました。
その結果、袁敞の子に送った私書(内容はわかりません)を得たため、封をして朝廷に提出しました(密告しました)
張俊等は獄に下されて死刑に処されることになりました。
しかし張俊は自ら獄中で獄吏に口述して冤罪を訴える上書を行いました(張俊が獄吏に冤罪であることを述べ、獄吏が張俊の代わりに上書の文を書いたのだと思われます。原文「俊自獄中占獄吏上書自訟」。「占」は「口授」の意味です)
やがて上書が提出されましたが、張俊の獄は既に死罪という判決が出ていました。
廷尉が穀門(洛陽城北面の中門)を出て処刑に臨もうとします。
しかしその時、鄧太后が詔を発し、死罪を減刑する判決を下して使者を馬で駆けさせました(詔馳騎以減死論)
死罪を免れた張俊が謝意を示す上書を提出しました(上書の内容は省略します)
朝廷は張俊の訴えを元に袁敞の罪を軽くし、獄死したことを隠しました。官位を元に戻して三公の礼で埋葬ます。
袁敞の子は袁盱といい、後に光禄勳になります。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
己巳(二十六日)、遼西の鮮卑連休(または「休連」)等が遼西に入寇しましたが、郡兵と烏桓大人於秩居等が共に撃って大破し、千三百級を斬首しました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』からです。
五月丁丑、太常李郃を司空に任命しました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月戊辰(二十六日)、三郡で雹が降りました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
尹就(安帝元初二年115年参照)益州を平定できなかった罪を問われ、雒陽に呼び戻されて処罰を受けました。
益州刺史張喬に尹就の軍屯を指揮させます。
張喬が叛羌を誘って招いたため、羌人は徐々に投降離散しました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』からです。
秋七月辛丑、陳王劉鈞が死にました。
 
後漢書孝明八王列伝(巻五十)』によると、劉鈞の諡号は思王です。
劉鈞の父は敬王劉羨で、劉羨は明帝の子です。
劉鈞の死後、子の懐王劉竦が継ぎました。
 
[十一] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
京師と十の郡国で大雨の被害が出ました(雨水)
 
安帝が詔を発しました「今年は秋稼(秋の作物)が茂好(繁茂)し、もうすぐ収穫できるが(垂可收穫)、連雨が止まないので(連雨未霽)、水没して損なわれるのではないかと懼れ(懼必淹傷)、夜になっても戒惧してこれを憂い、その咎を思念している(夕惕惟憂思念厥咎)。霖雨(長雨)というのは、人怨がもたらすものである。武吏が威によって下に対して暴虐し(以威暴下)、文吏が妄りに苛酷を行い(妄行苛刻)、郷吏が公事を利用して姦悪を生むのは(因公生姦)、百姓に患苦とされることなので、有司(官員)はその罰を顕明にせよ。また、『月令』には『仲秋(八月)は衰老を養い、几杖(肘置きと杖)を授け、糜粥(粥)の施しを行う(仲秋養衰老,授几杖行糜粥)』とある。ちょうど今は案比(戸口の調査と登録)の時だが、郡県の多くが奉行(実行)していない(八月は戸口の調査をして老齢者に几杖や粥を与えたようです)。たとえ糜粥があっても穅秕(粗末な食糧)が半分を占めており、長吏は事を怠って自ら行動する者がなく(莫有躬親)、甚だ詔書の養老の意に違えている。よって務めて仁恕を尊び(務崇仁恕)、寡独(身寄りがいない者)を賑護(救済保護)して朕の意にそわせよ(称朕意焉)。」
 
[十二] 『後漢書孝安帝紀』と資治通鑑』からです。
九月、護羌校尉任尚が人を募り、効功種羌(羌の効功種族)号封を使って叛羌零昌を刺殺させました。
号封は羌王に封じられました。
 
[十三] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十一月己卯(初九日)、彭城王劉恭(靖王)が死にました。
劉恭は明帝の子です。『後漢書孝明八王列伝(巻五十)』によると、子の考王・劉道が継ぎました。
 
[十四] 『資治通鑑』からです。
十二月、郡県の賦斂(賦税)が煩数(繁多)だったため、越夷の大牛種(大牛族)封離等が叛して遂久令(遂久は越郡に属す県です)を殺しました。
 
後漢書南蛮西南夷列伝(巻八十六)』は元初五年(翌年)に封離等の挙兵を書いていますが、『後漢書孝安帝紀』は本年の十二月に「越夷が遂久を侵して県令を殺した」と書いており、『資治通鑑』は「本紀」に従っています(胡三省注参照)
安帝元初六年119年)に再述します。

[十五] 『資治通鑑』からです。
甲子(二十五日)、任尚と騎都尉馬賢が共に先零羌の狼莫(零昌に仕えていました)を攻撃し、北地まで追撃しました。
双方は六十余日にわたって対峙し、富平河上(富平河の辺)で戦って東漢軍が狼莫を大破します。斬首は五千級に上り、狼莫は逃走しました。
西河の虔人種羌(虔人族の羌人)一万人が鄧遵を訪ねて投降し、隴右が平定されました。
 
後漢書孝安帝紀』はこう書いています「甲子、任尚と騎都尉馬賢が先零羌と富平上河で戦って大破した。虔人羌が衆を率いて投降し、隴右が平定された。」
後漢書西羌伝(巻八十七)』では合戦があった場所を「富平河上」としており、『資治通鑑』は『西羌伝』に従っています。
但し、『資治通鑑』胡三省注は「河水黄河(本流とは)別に河溝(大きな水路)を形成しており、東に向かって富平に到り、北に向かって河に入る。河水のその場所には『上河』の名がある(河水於此有上河之名)前漢の馮参が上河典農都尉になったが、この『上河』である」と解説しています。
資治通鑑』と『西羌伝』の「富平河上」は誤りで、『孝安帝紀』の「富平上河」が正しいようです。
富平県は北地郡に属します。
 
また、『孝安帝紀』の注によると、虔人種羌の大豪恬狼等が度遼将軍を訪ねて降りました。
 
胡三省は「狼莫は零昌の謀主である。零昌が既に死に、狼莫も敗れて逃走し、虔人羌が援助を失って投降した。こうして隴右が平定された」と解説しています。
 
[十六] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
この年、十三の郡国で地震がありました。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代168 安帝(十八) 任尚失脚 118年