東漢時代168 安帝(十八) 任尚失脚 118年

今回は東漢安帝元初五年です。
 
東漢安帝元初五年
戊午 118
 
[] 『後漢書孝安帝紀』からです。
春正月、越夷が叛しました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』からです。
二月壬戌、中山王憲が死にました。
 
後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、劉憲の諡号は夷王です。劉憲の父は簡王劉焉で、劉焉の父は光武帝です。
劉憲の死後は子の孝王劉弘が継ぎました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
春三月、京師と五つの郡国で旱害がありました。
 
安帝が詔を発して旱害に遭った貧人に食糧を支給しました(詔稟遭旱貧人)
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏六月、高句驪と濊貊が玄菟を侵しました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』からです。
秋七月、越蛮夷および旄牛豪が叛して長吏を殺しました。
『孝安帝紀』の注によると、旄牛は蜀郡に属す県です。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』からです。
丙子、安帝が詔を発しました「旧令制度ではそれぞれに科品(等級)があり、百姓が務めて節約を尊ぶようにさせたいと欲した。しかし永初(安帝の年号)の際(時代)に遭遇してから人々が離散して荒廃困苦したので(人離荒戹)、朝廷(皇帝)自ら物を減らし(朝廷躬自菲薄)、奢飾を除き(去絶奢飾)、食事は複数の味を並べず(食不兼味)、衣服は複数の彩色が無いようにした(衣無二綵)。連年、豊穰を獲ているが、なお儲積(貯蓄)が乏しい。ところが小人は考慮が無く、久長(長久)を図らず、嫁娶(結婚)送終(葬礼)が紛華靡麗で、ひどい場合は走卒(奴僕)奴婢にも綺縠(絹織物)を着て珠璣(珠宝)を身に着けている者がいる。京師でもそのようであったら、何をもって四遠に示すのだ。法令禁制を設けて懇切明白だが(設張法禁懇惻分明)、有司が任を惰って(惰任)今まで奉行していない(法令を守っていない)。秋節が既に立ったので(秋になったので。原文「秋節既立」)、鷙鳥を用いることにする(「鷙鳥」は凶暴な鳥ですが、ここでは刑罰を意味します)。まずは繰り返し(法令を)述べて今後の効果を観る(且復重申以観後效)。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
永昌、益州()、蜀郡の夷が全て叛して封離に呼応しました。十余万の衆になり、二十余県を破壊します。
長吏を殺して百姓を焚掠(放火略奪)したため、骸骨が積み重ねられ、千里に人がいなくなりました。
後漢書孝安帝紀』は翌年に書いています。再述します。
 
[] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋八月丙申朔、日食がありました。
 
[] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
代郡の鮮卑が入寇して長吏を殺しました。
東漢は縁辺(辺境)の甲卒と黎陽営の兵を動員して上谷に駐屯させ、鮮卑に備えました。
 
冬十月、鮮卑が上谷を侵して居庸関を攻めました。
朝廷は再び縁辺諸郡と黎陽営の兵および積射士(射士)歩騎二万人を動員し、要衝に駐軍させました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
鄧遵が上郡で人を募って全無種羌(全無族の羌人)雕何に狼莫を刺殺させました。
雕何は羌侯に封じられます。
 
羌が叛して十余年が経ち(安帝永初元年107年に羌が叛して足掛け十二年になります)、軍旅の出費は二百四十余億に上りました。府帑(国庫)が空になり、辺民や内郡の死者は数え切れません。并涼二州は羌人との戦いが原因で虚耗しました。
しかし零昌と狼莫が死んでからは(零昌は安帝元初四年117年に殺されました)、諸羌が瓦解し、三輔と益州に寇警(羌人の侵略を報せる警報)がなくなりました。
安帝は詔を発して鄧遵を武陽侯(または「舞陽侯」)に封じ、邑を三千戸にしました。鄧太后の従弟だったため、爵封が優大(優厚。盛大)にされます。
 
中郎将任尚は鄧遵と功を争いましたが(零昌は任尚が送った効功種羌号封に刺殺されました)、逆に戦功を偽るために首級を増やて報告した罪(詐増首級)と、賄賂を受け取って法を曲げ、貪汚の財が千万以上に上る罪(受賕枉法贓千万已上)を問われました。
 
十二月丁巳、朝廷が檻車で任尚を呼び戻して棄市に処し、財物を没収しました。
 
鄧騭の子である侍中鄧鳳はかつて任尚から馬を受け取ったことがありました。
鄧騭は妻と鄧鳳を髠(髪を剃る刑)に処して謝罪しました。
 
[十一] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
この年、十四の郡国で地震がありました。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
太后の弟鄧悝と鄧閶が前後して死にました。
鄧悝の子鄧広宗を葉侯に、鄧閶の子鄧忠を西華侯に封じました。
 
 
 
次回に続きます。