東漢時代169 安帝(十九) 119年(1)

今回は東漢安帝元初六年です。二回に分けます。
 
東漢安帝元初六年
己未 119
 
[] 『後漢書孝安帝紀と『資治通鑑』からです。
春二月乙巳(十二日)、京師と四十二の郡国で地震があり、ある場所では地が裂けて水泉が涌き出ました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀からです。
壬子(十九日)、安帝が詔を発し、三府に命じて掾属の高第(成績が優秀な者)の中から恵利をもたらして民を養える者(能恵利牧養者)をそれぞれ五人選ばせました。また、光禄勳と中郎将に命じ、孝廉郎の中から寛大で謀があり清廉潔白で行いが高尚な者(寛博有謀清白行高者)を五十人に選ばせました。
選ばれた者を地方に出して令尉に任命します。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』からです。
乙卯、安帝が詔を発しました「政事とは先に京師で行って後に諸夏(各国)に拡げるものである(夫政先京師後諸夏)。『月令』では、仲春(二月)は『幼小を養い、諸孤(孤児)を保護する(養幼小存諸孤)』ものであり、季春(三月)は『貧窮に下賜し、乏絶(困窮)を救済し、婦使(機織裁縫等、婦人の労働)を省いて貞女を表彰する(賜貧窮賑乏絶省婦使表貞女)』ものであり、こうすることで陽気に順じて生長を崇める(尊ぶ)のである。よって特に貧困な人、孤弱(孤児)、単独の者に一人当たり三斛の穀物を下賜する。また、節義がある貞婦に十斛を下賜し、門閭(里門)で甄表(表彰)してその行いを明らかにする(甄表門閭旌顕厥行)。」
 
[] 『後漢書孝安帝紀からです。
三月庚辰、始めて洛城西北に六宗祀を建てました(始立六宗祀於洛城西北)
『孝安帝紀』の注によると、六宗は天地四方の神です。
 
[] 『後漢書孝安帝紀からです。
夏四月、会稽を大疫が襲いました。
 
安帝が光禄大夫を派遣しました。太医を率いて疾病の者を循行(巡視)させ、棺木を下賜し、田租口賦を免除します。
『孝安帝紀』の注によると、太医令は一人おり、秩は六百石でした。
 
[] 『後漢書孝安帝紀と『資治通鑑』からです。
沛国と勃海で大風が吹き、雹が降りました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
五月、京師を旱害が襲いました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』からです。
六月丁丑(十七日)、楽成王劉賓(隠王)が死にました。
 
劉賓は楽成釐王劉巡の子です(和帝永元九年97年および安帝永初五年111年参照)
後漢書孝明八王列伝(巻五十)』によると、劉賓には子がいなかったため、国が廃されました。
翌年、済北恵王劉寿の子劉萇が楽成王に立てられます。劉寿は章帝の子です。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月丙戌(二十六日)、平原王劉得(哀王)が死にました。劉得には子がいませんでした。
 
劉得は楽安夷王劉寵の子で、劉寵は千乗貞王劉伉の子です。劉伉は章帝の子です。
翌年、河間孝王劉開の子劉翼が平原王に立てられます。劉開は章帝の子です。
 
[] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、鮮卑が馬城塞を侵して長吏を殺しました。
資治通鑑』胡三省注によると、馬城県は代郡に属します。
 
度遼将軍鄧遵と中郎将馬続が南単于を率いて追撃し、大破しました。
 
[十一] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月癸巳(初四日)、陳王劉竦(懐王)が死に、子がいなかったため国が除かれました。
後漢書孝明八王列伝(巻五十)』によると、劉竦の父は思王劉鈞、その父は敬王劉羨で、劉羨は明帝の子です。
 
[十二] 『後漢書孝安帝紀』と資治通鑑』からです。
冬十二月戊午朔、皆既日食がありました(日有食之既)
 
[十三] 『後漢書孝安帝紀』と資治通鑑』からです。
八つの郡国で地震がありました。
 
 
 
次回に続きます。