東漢時代170 安帝(二十) 疏勒 119年(2)

今回は東漢安帝元初六年の続きです。
 
[十四] 『資治通鑑』からです。
この年、鄧太后が和帝の弟済北王劉寿と河間王劉開の子で五歳以上の男女四十余人および鄧氏近親の子孫三十余人を集め、彼等のために邸第(邸宅)を開き、経書を教授しました。鄧太后自ら監試(監督試験)します。
 
(恐らく鄧太后)詔を発し、従兄の河南尹鄧豹、越騎校尉鄧康等にこう言いました「末世(王朝が衰退した時)の貴戚食禄(俸禄を得ること)の家は暖かい衣服を身に着けて美食を得ており(温衣美飯)、堅(頑丈な車。良い車)に乗って良馬を駆けさせていますが(乗堅駆良)、壁に向かって学問を行い(原文「面牆術学」。壁に向かっている時のように何も見えていないという意味です)、臧否(良否得失)を知りません。これが禍敗が訪れる原因です(斯故禍敗之所従来也)。」
 
[十五] 『資治通鑑』からです。
豫章で芝草(霊芝)が生えたため、太守劉祗が朝廷に献上しようとして郡人唐檀に意見を求めました。
唐檀が言いました「今は外戚が豪盛になり、君道が微弱になっています。これが嘉瑞でしょうか(斯豈嘉瑞乎)。」
劉祗は献上を中止しました。
 
[十六] 『資治通鑑』からです。
益州刺史張喬が従事楊竦を派遣して封離を討たせました。
楊竦は兵を率いて楪楡に到り、封離等を攻撃して大破します。三万余級を斬首し、生口(捕虜)千五百人を捕らえました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、楪楡県は西漢武帝が置きました。県の東に葉楡沢があったため、県名になりました。元は益州郡に属しましたが、東漢明帝が益州郡から分けて永昌郡に属させました。
 
封離等は恐れて同謀の渠帥(指導者)を斬り、楊竦を訪ねて投降を乞いました。
楊竦が厚く慰納(慰撫招納)を加えたため、他の三十六種(族)も皆、来降します。
楊竦はこれを機に姦猾で蛮夷を侵犯した長吏九十人を訴える上奏を行いました。皆、死罪から一等を減らした刑に処されます(皆減死論)
 
資治通鑑』では安帝元初四年117年)に大牛種封離等が叛して遂久令を殺し、元初五年(118年。前年)に永昌、益州、蜀郡の夷が叛し、本年(元初六年)に平定されています。
しかし、『後漢書南蛮西南夷列伝(巻八十六)』を見ると、安帝元初五年(118年。前年)に巻夷の大牛種封離等が叛して遂久令を殺し、その翌年(元初六年。本年)に永昌、益州および蜀郡の夷が全て叛して封離に呼応しましたが、楊竦に平定されています。
後漢書孝安帝紀』では、安帝元初四年117年)に越夷が遂久を侵して県令を殺し(この部分は『資治通鑑』と同じです。『南蛮西南夷列伝』では元初五年です)、本年(元初六年)に「永昌、益州、蜀郡の夷が叛し、越雟夷と共に長吏を殺して城邑を焼いた(『南蛮西南夷列伝』と同じで、『資治通鑑』では前年です)益州刺史張喬が討伐して破り、これを降した(『南蛮西南夷列伝』『資治通鑑』とも同じです)」と書いています。
 
[十七] 『資治通鑑』からです。
西域諸国が漢との関係を絶ってから(安帝永初元年107年参照)北匈奴が再び兵威を使って役属(臣属使役)させたため、西域と北匈奴が共に東漢の辺境を侵すようになりました。
 
敦煌太守曹宗がこれを憂い、朝廷に上奏してから行長史(長史代行)索班(『資治通鑑』胡三省注によると、索氏は敦煌で生まれました。また、商王朝の七族に索氏がいました)を派遣しました。索班は千余人を率いて伊吾に駐屯し、西域諸国を招撫します。
車師前王と鄯善王が再び来降しました。
 
[十八] 『資治通鑑』からです。
疏勒王安国の死後、子がいなかったため、国人は舅(母の兄弟)の子遺腹を王に立てました。
この時、遺腹の叔父臣磐が月氏にいたため、月氏が臣磐を疏勒に入れて王に立てました。
 
後漢書西域伝(巻八十八)』によると、安帝元初年間に疏勒王安国の舅臣磐が罪を犯したため、月氏に遷されました。月氏王は臣磐を親愛します。
後に安国が死に、子がいなかったため、安国の母が国政を行い、国人と共に臣磐の同母弟の子遺腹を疏勒王に立てました。
それを聞いた臣磐が月氏王に協力を求めてこう言いました「安国には子がなく、種人(族人)は微弱です。もし母氏(母の一族)を立てるのなら、私は遺腹の叔父(伯父の誤りではないかと思われます)なので、私が王になるべきです(我乃遺腹叔父也,我当為王)。」
月氏は兵を派遣して臣磐を疏勒に送り帰しました。
国人はかねてから臣磐を敬愛しており、しかも月氏を畏れたため、共に遺腹の印綬を奪い、臣磐を迎え入れて王に立てました。遺腹は磐稾城侯に遷されます。
 
資治通鑑』に戻ります。
後に莎車が于に叛して疏勒に臣属しました(莎車は明帝永平四年61年から于に属しています)
疏勒はここから強盛になり、亀茲、于と対立しました。
 
 
 
次回に続きます。