東漢時代171 安帝(二十一) 班勇 120年(1)

今回は東漢安帝永寧元年です。二回に分けます。
 
東漢安帝永寧元年
庚申 120
夏四月に改元します。
 
[] 『後漢書孝安帝紀からです。
春正月甲辰、任城王劉安が死にました。
劉安の父は孝王劉尚で、劉尚の父は東平憲王劉蒼、その父は光武帝です(章帝元和元年84年参照)
後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、劉安の諡号は貞王で、子の節王劉崇が継ぎました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀と『資治通鑑』からです。
春三月丁酉(十一日)、済北王劉寿(恵王)が死にました。
劉寿は章帝の子です。『後漢書章帝八王伝(巻五十五)』によると、子の節王劉登が継ぎました。
 
[] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
北匈奴が車師後王軍就(軍就が名です)を率いて共に後部司馬および敦煌長史索班等を殺しました。
資治通鑑』胡三省注によると、「司馬」は戊己校尉の管轄下に属します。和帝時代に戊己校尉を置き、車師後部(後国)を鎮守させました。
 
後漢書班梁列伝(巻四十七)』を見ると、元初六年(前年)敦煌太守曹宗が長史索班を伊吾に駐屯させ、車師前王と鄯善王が索班に投降しましたが、その数カ月後に、北単于と車師後部が共に索班を攻めて殺しています(元初六年か永寧元年かははっきりしません)
後漢書孝安帝紀』では永寧元年(本年)に車師後王が叛して部司馬を殺しており、『後漢書西域伝(巻八十八)』でも永寧元年(本年)に「後王軍就と母の沙麻が反畔(背反)して後部司馬および敦煌行事を殺した」としています。『西域伝』の注によると、「敦煌行事」は敦煌が派遣した長史索班を指します。
胡三省は「索班は昨年末に伊吾に駐屯して今年の春に殺されたか、(前年殺されたが)今年の春になって奏事(索班が殺されたという報告)がやっと到着した」と解説しています。
 
北匈奴と車師後王は勝ちに乗じて車師前王を駆逐し(撃走其前王)、北道を攻略しました。
逼迫した鄯善が曹宗に救援を求めます。
曹宗は五千人の兵を出して匈奴を撃ち、索班の恥(仇)に報いて再び西域を取ることを朝廷に請いました。
しかし公卿の多くは玉門関を閉じて西域との関係を絶つべきだと考えました。
太后は軍司馬班勇に父風(父班超の気風)があると聞き、朝堂(朝廷)に召して意見を聴きました。
 
班勇が建議して言いました「昔、孝武皇帝匈奴の強盛を患いたので、西域を開通しました。(当時の)論者は匈奴の府藏五臓六腑。または国庫)を奪って右臂(右腕)を断ったと考えました。光武の中興後は、外事を顧みる余裕がなかったため(未遑外事)匈奴が強い力に頼って諸国を駆使しました匈奴負強駆率諸国)。永平(明帝の年号)に至ると、(匈奴)再び敦煌を攻めたので、河西諸郡の城門が昼でも閉じられるようになりました。しかし孝明皇帝が深く廟策(国策)を考慮して、虎臣(班超を指します)に命じて西域に出征させたので、匈奴が遠遁し(遠くに逃走し)、辺境が安(安寧)を得ました。そのおかげで、永元(和帝の年号)に至ると内属しない者がいなくなりました。
ところが最近は羌の乱があり、西域(との関係)が再び絶えました。そこで北虜が諸国に使者を送って譴責し、逋租(滞っていた貢物)を償わさせ、その価値を高くして期限を厳しく定めています(原文「遂遣責諸国備其逋租,高其価直厳以期会」。『資治通鑑』胡三省注によると、西域は漢に属してから、馬畜や旃罽(毛織物)匈奴に贈らなくなりました。しかし漢との関係が絶たれたため、匈奴が使者を送って滞っていた貢物を要求しました)。鄯善、車師は皆、憤怨を抱き、漢に仕えることを願っていますが、その路がありません(思楽事漢其路無従)。以前、(西域で)時々叛す者がいたのは、皆、牧養(統治)が道理を失っていて、更に害を為していたからです(皆由牧養失宜還為其害故也)
今、曹宗はいたずらに前負(以前の敗戦。索班等が殺された事件を指します)を恥とし、匈奴への報雪(仇に報いて恥を雪ぐこと)を欲していますが、出兵の故事を探求せず、当面の宜(便宜。利害)を量っていません(不尋出兵故事,未度当時之宜也)。荒外(「荒服」の外。辺境未開の地)で功を求めても、万に一の成功もありません(万無一成)。もし兵を連ねて禍を結ぶことになったら(連年兵を用いて禍が絶えなくなったら。原文「若兵連禍結」)、後悔しても及びません。しかも今は府藏が充実していないので、師(軍)は後継(後援)がありません。これは遠夷に弱を示し、海内に短(短所。欠陥)を暴露することなので、臣の愚見によるなら許可してはなりません。
かつて敦煌郡には営兵三百人がいました。今はこれを恢復するべきです。併せて護西域副校尉を置いて敦煌に居住させ、永元の故事のようにします。また、西域長史を派遣し、五百人を率いて楼蘭(『資治通鑑』胡三省注によると、楼蘭は鄯善を指します)に駐屯させ、西は焉耆、亀茲の徑路(通路)に当たり、南は鄯善、于の心膽を強くさせ(鄯善、于を励まし)、北は匈奴に抵抗し(北扞匈奴、東は敦煌に連結させるべきです(東近敦煌。このようにすれば誠に便(利)があります(如此誠便)。」
 
尚書が班勇に問いました「(班勇の策の)利害はどうだ(利害云何)?」
班勇が答えました「昔、永平の末に西域と通じたばかりの時、始めて中郎将(『資治通鑑』胡三省注によると鄭衆です)を派遣して敦煌に居住させました。後に副校尉(『資治通鑑』胡三省注によると、耿恭、関寵です)を車師に置き、一方では胡虜を節度(指揮)し、同時に漢人が侵擾することを禁止しました漢人が西域の人を侵さないように監視しました。原文「禁漢人不得有所侵擾」)。だから外夷が帰心し、匈奴が威を畏れたのです。今、鄯善王尤還(人名です)漢人の外孫です(外孫は娘の子です。尤還の母親側の祖父か祖母が漢人です)。もし匈奴が志を得たら匈奴が勢力を拡大させたら)、尤還は必ず死ぬでしょう。彼等は鳥獣と同じですが(此等雖同鳥獣)、それでも害から避けることを知っています。もしも兵を出して楼蘭(鄯善)に駐屯すれば、その心を招附(帰附。帰順)させるに足ります。臣の愚見ではこれを便(利)と考えます(愚以為便)。」
 
長楽衛尉鐔顕(鐔が氏です)、廷尉綦毋参(綦毋が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、春秋時代の晋に綦毋張がいました)司隸校尉崔拠が反対して言いました「以前、朝廷が西域を棄てたのは、中国に対して益がなく、費(費用)を供出するのが困難だったからです。今、車師は既に匈奴に属しており、鄯善も信を保つことができません(信用できません。原文「不可保信」)。一旦にして反覆しても(裏切っても)、班将(『資治通鑑』胡三省注によると、班勇は軍司馬なので「将」と呼ばれました)は北虜が辺害にならないと保証できますか?」
 
班勇が答えました「今、中国が州牧を置いているのは、郡県の姦猾盗賊を禁じるためです。もしも盗賊が起きないことを州牧が保証できるのなら、臣も要斬(腰斬)をかけて匈奴が辺害にならないと保証することを願います。
今、西域と通じれば虜勢匈奴の勢力)が必ず弱くなります。虜勢が弱くなれば、形成される禍患も小さくなります(為患微矣)(匈奴)府藏を返して断った臂(腕)を繋げさせるのと、どちらが良いでしょう(孰與帰其府藏,続其断臂哉)。今、校尉を置くのは西域を扞撫(守衛按撫)するためであり、長史を設けるのは諸国を招懐(懐柔)するためです。もしも(西域を)棄てて立てなかったら(校尉や長史を置かなかったら)西域が絶望し、絶望した後は北虜に屈就(屈服服従するので、縁辺の郡が困害を受け、恐らく河西はまた昼でも城門を閉ざすという儆(警戒)が必要になります(恐河西城門必須復有昼閉之儆矣)。今、朝廷の徳を廓開(開くこと。宣揚すること)せず、屯戍の費に拘っていますが、このようであったら(若此)、北虜が旺盛になってしまいます(北虜遂熾)。これが辺境を安んじる長久の策でしょうか(豈安辺久長之策哉)。」
 
太尉属(『資治通鑑』胡三省注によると、太尉掾属は二十四人いました。東西曹掾は比四百石で、その他の掾は比三百石、属は比二百石です)毛軫が反対して言いました「今もし校尉を置いたら、西域が絶えず使者を派遣し(原文「駱駅遣使」。「駱駅」は絶え間がないという意味です)(賞賜を)求めて満足を知らないでしょう(求索無厭)(賞賜を)彼等に与えたら費用の供出が困難になり(費難供)、与えなかったらその心を失います。しかも(彼等が)一旦、匈奴に逼迫されたらまた救援を求めるので、役(兵役、戦争。負担)が大きくなります(則為役大矣)。」
 
班勇が答えました「たとえば今、西域を匈奴に帰順させたとして、匈奴に)大漢の恩徳を感謝させ(使其恩徳大漢)匈奴が)鈔盗(侵略、略奪)を行わなくなるのならそれでもいいでしょう(則可矣)。しかしもしそうならなかったら(如其不然)匈奴は)西域の租入の饒(西域が納めた豊富な財)と兵馬の衆を利用して縁辺を擾動(騒乱)します。これは仇讎の財を富ませて暴夷の勢を増やすことです。校尉を置くのは、宣威布徳によって(威信を宣揚して徳を施すことで)諸国の内向の心(漢に向いた心)を繋げて匈奴の覬覦(不当な野心を抱くこと)の情を疑わせる(惑わせる。動揺させる)のが目的であり、費財耗国の慮(国費を消耗させる憂慮)はありません。そもそも西域の人には他に求めることはありません(無他求索)。来入した者に食事を与えるだけのことです(不過稟食而已)。今もし拒絶したら、(西域は)必ず北の夷虜に属し(原文「勢帰北属夷虜」。「勢帰」は「形勢がそのようになる」という意味です)、力を併せて并涼を侵すでしょう。そうなったら中国の費は十億ではすみません。(校尉を)置くのは誠に便(利)となります。」
 
朝廷は班勇の議に従い、敦煌郡の営兵三百人を恢復しました。西域副校尉を置いて敦煌に居住させます。
しかし東漢は西域を再び支配下に置こうとしたものの、辺境を出て兵を駐屯させることはできませんでした敦煌には西域副校尉を置きましたが、楼蘭に兵を駐屯させることはできませんでした)
この後、匈奴がしばしば車師と共に侵略を繰り返し、河西が大きな害を被ることになります。
 
胡三省はこう書いています「(漢は)班勇の計のように兵を出して楼蘭西に駐屯させることはできなかった。しかし班勇の計を行っていたとしても、西域を制御できたとは限らない。それはなぜか。武帝は西域と通じたが、西域を全て臣属させることはできなかった。宣帝の時代に至って(匈奴)日逐が投降し、呼韓邪が内附したので、始めて全ての西域を得ることができたのである。明帝は班超を使って西域と通じさせたが、全ての西域を臣属させることはできなかった。竇憲が北匈奴を破ってから、班超が始めて全ての西域を得たのである。今、漢は国内で諸羌のために困苦し、しかも北匈奴が蒲類で游魂(旧勢力の生き残りが存在すること)している。どうして五百人で功を成せるだろう。」
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代172 安帝(二十二) 鄧康 120年(2)