東漢時代172 安帝(二十二) 鄧康 120年(2)
今回は東漢安帝永寧元年の続きです。
沈氐羌が張掖を侵しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、上郡西河に住む羌が沈氐を号にしました。
夏四月丙寅(十一日)、皇子・劉保を太子に立てました。
己巳(十四日)、陳敬王・劉羨の子・劉崇を陳王に、済北恵王・劉寿の子・劉萇を楽成王に、河間孝王・劉開の子・劉翼を平原王に封じました。
前年、陳王・劉竦(懐王)、楽成王・劉賓(隠王)、平原王・劉得(哀王)が死に、後嗣がいないため一時家系が途絶えていました。
本年、三王に後継者が立てられました。
陳敬王・劉羨は明帝の子で劉竦の祖父です。
済北恵王・劉寿と河間孝王・劉開は章帝の子です
壬午(二十七日)、琅邪王・劉寿が死にました。
六月、護羌校尉・馬賢が一万人を率いて沈氐羌を討ち、張掖で破りました。千八百級を斬首して生口(捕虜)千余人を獲ます。
残った虜(沈氐羌)は全て投降しました。
この時、馬賢の兵が張掖にいたため、当煎種の大豪・飢五等が虚に乗じて金城を侵しました。
しかし馬賢が張掖から金城に還ったため、それを知った焼当、焼何種(族)がまた張掖を侵して長吏を殺しました。
『後漢書・孝安帝紀』は「六月、沈氐種羌が叛して張掖を侵した。護羌校尉・馬賢が沈氐羌を討ち、これを破った」「焼当羌が叛した」と書いていますが、本年春にも「沈氐羌が張掖を侵した」と書いています。六月の「沈氐種羌が叛して張掖を侵した」は内容が重複しており誤りです。
秋七月乙酉朔、日食がありました。
冬十月己巳(十六日)、司空・李郃を罷免しました。
癸酉(二十日)、衛尉・廬江の人・陳褒を司空にしました。
京師と三十三の郡国で大水(洪水)がありました。
『資治通鑑』胡三省注によると、幻人は変化(姿を変える芸)、吐火(火を吐く芸)、自支解(恐らく自分の四肢を分解して元に戻す芸)、易牛馬頭(牛の頭を馬の頭に変える芸)等ができ、自身を海西人と称していました。海西は大秦(ローマ)です。
『後漢書・李陳龐陳橋列伝(巻五十一)』によると、翌年の元会(元旦の朝会)の際、宮庭で幻人が技を披露し、安帝と群臣が共に見物して非常に驚きました(大奇之)。しかし諫議大夫・陳禅だけは席から離れて手を挙げ、大言で「帝王の庭に夷狄の技を設けるのは相応しくありません」と諫めました。
この発言が原因で陳禅は玄菟候城障尉(『李陳龐陳橋列伝』の注によると、候城は県名です)に左遷されます。
ところがちょうどその頃、北匈奴が遼東に侵入したため、朝廷は陳禅を遼東太守に任命しました。
陳禅は兵を出さず、吏卒を派遣して曉慰(説諭慰労)しただけでした。
このように『李陳龐陳橋列伝』の記述によると、永寧二年(翌年)に北匈奴が遼東に侵入しますが、『資治通鑑』はこれを採用していません。胡三省はこう書いています「和帝時代以来、北匈奴は更に西に遷り、代郡以東から遼東に至る塞外の地は全て鮮卑、烏桓が住んでいた。北単于が遼東に到るはずがない。『資治通鑑』が採用しないのは当然である。」
戊辰(十六日)、司徒・劉愷が引退を請い(請致仕)、許可されました。帰郷後も千石の禄で養われました(以千石禄帰養)。
この年、二十三の郡国で地震がありました。
夫餘王が子を送って宮闕を訪ねさせ、貢献しました。
鄧太后の従弟に当たる越騎校尉・鄧康(安帝元初六年・119年の記述では鄧康を鄧太后の「従兄」としています。『後漢書・皇后紀上』でも「従兄」です。ここで『資治通鑑』が「従弟」としているのは誤りのようです。胡三省注参照)は、太后が久しく朝政に臨んでおり、宗門の隆盛が満たされているので、しばしば太后に上書し、公室を崇めて自ら私権を削るべきだと進言しました。その言葉は非常に懇切でしたが、鄧太后は従おうとしません。
そのため、鄧康は病と称して入朝しなくなりました(謝病不朝)。
鄧太后が内侍の者を派遣して鄧康の病状を問いました。
使者になった者はかつて鄧康家で婢女の立場におり、後に入宮して鄧太后に仕えていました。
それを聞いた鄧康は使者を罵りました。
使者は怨恨を抱いて還り、鄧康の病は偽りで言葉が不遜だと報告しました。
次回に続きます。