東漢時代173 安帝(二十三) 鄧太后の死 121年(1)

今回は東漢安帝建光元年です。五回に分けます。
 
東漢安帝建光元年
辛酉 121
七月に改元します。
 
[] 『資治通鑑』からです。
当煎種饑五(人名。前年参照)の同種族である大豪盧怱、忍良等千余戸が単独で允街に留まり、漢と羌の間で様子を窺っていました(首施両端)
 
春、護羌校尉馬賢が慮怱を招いて斬り、兵を放って種人(慮怱の族人)を撃ちました。二千余の首虜(首と捕虜。または首級)を獲ます。
忍良等は全て逃走して塞を出ました。
 
後漢書西羌伝(巻八十七)』によると、馬賢はこの功績によって安亭侯に封じられました。食邑は千戸です。
 
[] 『資治通鑑』からです。
幽州刺史巴郡の人馮煥、玄菟太守姚光、遼東太守蔡諷等が兵を率いて高句驪を撃ちました。
高句麗宮は子の遂成を派遣して偽りの投降をしてから、玄菟と遼東を襲って二千余人を殺傷しました。
 
後漢書孝安帝紀』は「春正月、幽州刺史馮煥が二郡の太守を率いて高句驪と穢貊を討ったが勝てなかった」と書いています。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と資治通鑑』からです。
二月、皇太后が病に倒れました(寝疾)
 
癸亥(十二日)、天下に大赦しました。
諸園の貴人(『孝安帝紀』の注によると、子がいない宮人で園陵を守っている者です)、王(公主)、公卿以下の官員にそれぞれ差をつけて銭布を下賜し、公卿、校尉、尚書の子弟一人を郎舍人に任命しました。
 
三月癸巳(十三日)、皇太后鄧氏が死にました。
大斂(死体を棺に納めること)に及ぶ前に、安帝が改めて前命(鄧太后の生前の命令)を明らかにし、鄧騭を上蔡侯に封じて位を特進にしました(鄧太后が生きている間、鄧騭は封侯を辞退していました)
丙午(二十六日)、和熹皇后(鄧太后を埋葬しました。
 
実際には、当時の諡号は「和熹」ではありません。胡三省注と『後漢書皇后紀下』を元に、諡号について解説します(明帝永平七年64年にも述べました)
西漢の諸皇后は死んでから皇帝(夫)諡号をそのまま使いました。例えば恵帝の皇后は「孝恵」張皇后、文帝の皇后は「孝文」竇皇后、景帝の皇后は「孝景」薄皇后といいます。
但し、武帝の衛皇后と宣帝の許皇后だけは不遇によって天寿を全うできなかったため、後に「思后(衛思后)」「恭哀皇后(許恭哀后)」という諡号が贈られました。
東漢光武帝の皇后である陰氏の諡号は、光武帝の「光」の後ろに「烈」の字が加えられました。
その後の皇后の諡号には皇帝の諡号の後ろに「徳」の一字が加えられるようになります。例えば明帝の皇后は「明徳」馬皇后、章帝の皇后は「章徳」竇皇后です。『後漢書皇后紀下』は東漢時代の皇后の諡号について「賢愚優劣において混同一貫しており(混同して違いがなく)、そのため馬氏と竇氏の二后が共に『徳』を称した(複数の皇后が優劣に関係なく「徳」を諡号に使った)」と書いています。
皇后以外では、皇帝の庶母(皇帝の実母で前代皇帝の皇后ではなかった者)に対してや、蕃王が皇統を継承した場合に特別に号を追尊しました。「恭懐(和帝の母。章帝の梁貴人)」や「孝崇桓帝の母。蠡吾侯劉翼の媵妾。匽氏)」等です。
初平年間献帝の年号)になってから、蔡邕が始めて鄧太后(和帝の皇后)諡号を正して「和熹」の号を追尊し(これ以前の諡号は「和徳」だと思われます)、その後の皇后も「安思(安帝の皇后閻氏)」「順烈(順帝の皇后梁氏)」というように諡号が改められました(安帝建光元年121年に再述します)
 
後漢書皇后紀上』と『資治通鑑』は鄧太后をこう評価しています。
「鄧太后が朝政に臨んでから、水旱の害が十載(十年)に及び、四夷が外から侵略して盗賊が国内で起きたため、鄧太后は民の飢餓を聞くたびに憂慮し、朝まで眠れないこともあった。しかし自ら減徹(減膳徹楽。食事を減らして音楽等の娯楽を廃止すること)して災難から(民を)救ったおかげで、天下が再び安定して豊作を取り戻した(歳還豊穰)」。
但し、実際には連年天災に襲われており、東漢はますます衰退していきます。
胡三省は「和熹が朝廷に臨んだ政治は『牝雞之晨,唯家之索』といえる」と書いています。
「牝雞之晨」というのは雌鶏が朝に鳴くことで、「唯家之索」は「家が尽きる」という意味です。本来、朝鳴くのは雄鶏なので、「雌鶏が鳴く」というのは男に代わって女が実権を握ることを比喩しています。
胡三省は「女が実権を握ったら家が滅ぶ。鄧太后の政治がそれだった」と言っています。
 
[] 『資治通鑑』からです。
安帝が自ら政事を行うようになりました。
尚書陳忠が隠逸直道の士として潁川の人杜根、平原の人成翊世等を推挙し、安帝は全て採用しました。
陳忠は陳寵(和帝殤帝時代の三公)の子です。
 
太后が臨朝していた時、杜根は郎中になり、当時の郎と共に上書して「帝が成長したので、自ら政事を行うべきです(帝年長,宜親政事)」と言いました。
太后はこれに激怒しました。上書した者を全て縑囊(絹の袋)に入れて殿上で撲殺させます。
その後、縑囊を車に載せて城外に運びました。その間に杜根は蘇生します。
しかし鄧太后が人を送って検視させたため、杜根は死んだふりをしました。三日が過ぎて目の中に蛆が生まれましたが、なんとか逃走して身を隠し、宜城山中(『資治通鑑』胡三省によると、宜城県は南郡に属します。美酒の産地でした)の酒家で使用人になりました(為宜城山中酒家保)
そこで十五年を過ごします。
 
成翊世は郡吏でしたが、杜根と同じく鄧太后に政権を還すように諫言して罪に触れました。
 
安帝は二人を召して公車(官署)を訪ねさせました。杜根を侍御史に、成翊世を尚書郎に任命します。
ある人が杜根に問いました「以前、禍に遇った時、天下が義(道義。意見)を同じくし、知故(知人旧友)も少なくなかったのに、なぜあのように自らを苦しめたのですか(何至自苦如此)?」
杜根が言いました「民間で転々とするのは足跡を絶つことにならず(周旋民間非絶跡之処)、計らずも誰かに遭って身分が暴露されたら(邂逅発露)、禍が親知(親戚友人)に及ぶ。だからそうしなかったのだ(故不為也)。」
 
[] 『後漢書孝安帝紀』からです。
丁未(二十七日)、楽安王劉寵が死にました。
 
劉寵は千乗貞王劉伉の子で、劉伉は章帝の子、劉慶の兄弟です。和帝永元七年95年)に国名が千乗国から楽安国に改められました。
後漢書章帝八王伝(巻五十五)』によると、劉寵は一名を伏胡ともいい、諡号は夷王です。
父子とも京師で死に、洛陽(雒陽)に埋葬されました。
 
子の劉鴻が跡を継ぎました。安帝の死後、始めて封国に就きます。
劉鴻の子は質帝です。楽安国は土地が低くて湿度が高く、租委(田賦)が少ないため、質帝の即位後、劉鴻は勃海王に改封されました。
劉鴻の諡号は孝王です。
 
[] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
戊申(二十八日)、皇考(皇帝の実父)・清河孝王・劉慶を追尊して孝徳皇に、皇妣(皇帝の母)・左氏を孝徳皇后に、祖妣(皇帝の祖母)・宋貴人(劉慶の母)を敬隠皇后にしました。
 
章帝建初七年82年)に長楽太僕・蔡倫が竇后の諷旨(示唆。旨意)を受けて宋貴人を誣告したため、宋貴人は自殺しました。
安帝は勅令を発して蔡倫を自ら廷尉に赴かせました。廷尉に行くというのは獄に入ることを意味します。
蔡倫は薬(毒)を飲んで死にました。
 
蔡倫は中国四大発明の一つである紙の製造法を確立した宦官として知られています。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代174 安帝(二十四) 薛包 121年(2)