東漢時代174 安帝(二十四) 薛包 121年(2)

今回は東漢安帝建光元年の続きです。
 
[] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、高句麗(穢貊)がまた鮮卑と共に遼東を侵しました。
遼東太守・蔡諷が新昌で追撃しましたが戦没します。
功曹掾・龍端、兵馬掾・公孫酺も身をもって蔡諷を守り、共に戦死しました。
 
尚、「功曹掾・龍端、兵馬掾・公孫酺」は『資治通鑑』の記述で、『後漢書・東夷列伝(巻八十五)』では「功曹・耿耗、兵曹掾・龍端、兵馬掾・公孫酺」です。
 
[] 『後漢書・孝安帝紀』からです。
丙辰(初六日)、広川を清河国に編入しました。
 
当時の清河王は恭王・劉延平です。
安帝永初元年107年)に清河国を分けて安帝の弟・劉常保を広川王に封じましたが、劉常保は翌年に死に、子がいなかったため国が廃されました。今回、広川が清河国に戻されました。
 
[] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
丁巳(初七日)、安帝の嫡母(父・劉慶の正妻)に当たる孝徳皇元妃・耿姫を尊重して甘陵大貴人にしました。
資治通鑑』胡三省注によると、甘陵は孝徳皇(劉慶)の墓陵です。
 
[] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
甲子(十四日)、楽成王・劉萇が驕淫で法を守らなかったため、臨湖侯(『後漢書・孝安帝紀』『後漢書・孝明八王列伝(巻五十)』『補後漢書年表(巻二)』では「臨湖侯」ですが、『資治通鑑』は「蕪湖侯」としています)に落とされました。
 
劉萇は済北恵王・劉寿の子で、劉寿は章帝の子です(安帝永寧元年・120年参照)
『孝安帝紀』の注は劉萇の罪を「軽慢不孝」と書いています。
 
[十一] 『後漢書・孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
己巳(十九日)、安帝が公卿、特進、侯、中二千石、二千石、郡国の守相に命じ、それぞれ有道の士(道理に通じた人士)一人を挙げさせました。
また、鰥寡(配偶者を失った男女)、孤独(孤児や身寄りがいない老人)、貧困のため自存できない者に一人当たり三斛の穀物を下賜しました。
 
尚書・陳忠は、「詔書によって諫争(直言・諫言)を開いたら、発言する者が必ず激切(激烈)になり、あるいは皇帝が容認できなくなるのではないか」と憂いました。そこであらかじめ安帝の胸襟を広くさせるために(豫通広帝意)上書しました「臣が聞くに、仁君は(度量を)山や藪のように大きく広げ(広山藪之大)、切直(激烈率直)な謀を聞き入れるので(納切直之謀)、忠臣が謇諤(正直・直言)の節を尽くし、逆耳の害(皇帝の意思に逆らうことで被る害)を畏れなくなるのです。だから高祖は周昌が(高祖を)桀・紂に譬えても気にとめず(原文「舍周昌桀紂之譬」。西漢時代、周昌が上奏のために(入宮して)高帝を謁見した時、高帝は戚姫を抱いていました。周昌が引き返すと高帝は後を追って周昌の首に跨り、「わしはどのような主だ(我何如主也)」と問いました。周昌は仰ぎ見て「陛下は桀・紂のような主です」と答えます。高帝は笑いましたが、周昌を畏敬するようになりました。『漢書・張周趙任申屠伝(巻四十二)』に記述があります)、孝文は袁盎による人豕の譏(批難)を好み(袁盎は文帝の慎夫人に対する待遇を諫めました。文帝前二年・前178年参照)武帝は東方朔の宣室の正(宣室を正すこと)を聞き入れ武帝が宣室で宴を開いた時、東方朔が諫言しました。武帝元光五年130年参照)元帝は薛広徳の自刎の切(切諫)を許容しました元帝が楼船に乗ろうとした時、薛広徳が命をかけて諫めました。元帝永光元年43年参照)
今、(陛下は)明詔によって高宗(商王武丁)の徳を崇め、宋景春秋時代の宋景公)の誠を推し広め、咎の責任を負って自らを批判し(引咎克躬)、群吏に諮訪(意見を求めること)しました。発言する者は杜根、成翊世等が表録(表彰任用)を蒙ったばかりなのに二台尚書と御史)の高位に列したのを見て(言事者見杜根成翊世等新蒙表録顕列二台)、必ずそれに倣って争って切直(激烈率直な諫言)を為します(必承風響応争為切直)。もし嘉謀異策があったら全て納用(採用)するべきです。しかしもし管穴(視野が狭いこと)のようだったり、妄りに譏刺(誹謗風刺)があったり、用いるのが困難で耳に痛く、事実ではなかったとしても(苦口逆耳不得事実)、とりあえず優游(自由)寛容にして、聖朝の無諱の美(諫言において忌避する必要がない美徳)を示すべきです。もし有道の士の対問(回答)が高明だったら、省覧(審閲。観察)を垂らして(留意して審査を行い)、特別に一等に遷すことで直言の路を広げるべきです。」
 
上書が提出されてから、安帝が詔を発しました。有道高第の士(有道で成績が優秀な士)として沛国の人施延(『資治通鑑』胡三省注によると、魯の大夫に施伯がいました。魯恵公の子子尾が字を施父といい、施父の子が施を氏にしました。これが施伯です)が侍中に任命されます。
 
汝南の薛包は年少の時から至行(優れた品行)がありました。
ところが、薛包の父は後妻を娶ってから薛包を憎むようになり、家から出して別の場所で生活させました。
薛包は日夜号泣して去ろうとしませんでしたが、殴打されて追い出されたため、やむなく家の外(恐らく敷地外の小屋)で宿泊しました(廬於舍外)
朝になってから、薛包は家に帰って洒掃(庭等の水まきと掃除)をしました。しかし父がまた怒って追い出します。
薛包は里門に住むことにしましたが、その後も朝と夜の挨拶を欠かしたことがありませんでした(晨昏不廃)
一年余が経ってから、父母が慚愧して薛包を家に帰らせました。
父母が死ぬと、弟(恐らく異母弟です)の子が財産を分けて別々に住むことを希望しました。
薛包は止めることができず、財産を分けることにしました。奴婢を分ける時は老人を選んで「私と事を共にして久しいので、汝では使うことができない」と言い、田廬(田地や家屋)を分ける時は荒頓(荒廃)した場所を選んで「私が若い頃に治めた(修築した。経営した)ので離れがたい(意所恋也)」と言い、器物を分ける時は朽敗(破損)した物を選んで「私がかねてから服食していた物なので、身口が安んじられる」と言いました。
弟の子はしばしば破産しましたが、いつも薛包が賑給(救済)しました。
薛包の名声を聞いた安帝は公車に命じて単独で薛包を招かせました。
薛包が到着すると、安帝が侍中に任命しましたが、薛包は命をかけて辞退を請います(以死自乞)
安帝は詔を発して告帰(官員が故郷に帰ること)を許しましたが、毛義(章帝元和元年84年参照)と同等の礼を加えました。
 
[十二] 『後漢書孝安帝紀はここで「遼東属国都尉龐奮が偽の璽書詔書を受けて玄菟太守姚光を殺した」と書いていますが、実際は翌年の出来事です。再述します。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代175 安帝(二十五) 鄧氏失脚 121年(3)