東漢時代176 安帝(二十六) 安帝の内寵 121年(4)

今回も東漢安帝建光元年の続きです。
 
[十四] 『資治通鑑』からです。
安帝が耿貴人(嫡母)の兄にあたる牟平侯耿宝を監羽林左軍車騎に任命しました。
資治通鑑』胡三省注によると、羽林には左右監がおり、それぞれ左右騎を管理しました。
 
また、宋楊の四子を皆、列侯に封じました。宋楊は宋貴人(敬隠后)の父です。宋貴人は章帝の妃で、清河孝王劉慶の母、安帝の祖母です。
宋氏で卿・校(『資治通鑑』胡三省注によると、九卿と諸校尉です)、侍中、大夫、謁者、郎吏になった者は十余人いました。
 
閻皇后の兄弟に当たる閻顕、閻景、閻耀も卿校に任命し、禁軍を指揮させました(典禁兵)
ここから安帝の内寵(妃妾等、寵愛する者。または外戚が旺盛になります。
 
安帝が即位する時、江京が帝を清河邸から迎えたたため、江京はその功績によって都郷侯に封じられました。また、李閏(江京と共に安帝に仕えていました)を雍郷侯に封じ、李閏と江京を中常侍にしました(二人とも元は中黄門です)
江京は大長秋を兼任し、中常侍樊豊、黄門令劉安、鈎盾令陳達(『資治通鑑』胡三省注によると、黄門令は省中(禁中)の諸宦者を管理し、鈎盾令は苑囿游観の地を管理しました。全て宦官です)および王聖、王聖の娘伯栄と共に内外で扇動(活動)して侈虐(奢侈暴虐)を競いました。
中でも伯栄は宮掖(皇宮)に出入りして姦悪と通じ、賄賂を流通させました(伝通姦賂)
 
司徒楊震が上書しました「臣が聞くに、政とは賢才を得ることを根本とし、治とは穢(汚れ。姦悪)を除くことを責務とするものです(政以得賢為本,治以去穢為務)。だから唐(堯舜)の時代は俊乂(才徳が傑出した人材)が官におり、四凶が流放され、天下が皆服しました。こうして雍熙(和睦)をもたらしたのです。今は九徳の士がまだ仕えず(原文「九徳未事」。『資治通鑑』胡三省注によると、「九徳」は「寬而栗(寛大だが厳粛である)」「柔而立(柔和だが自分の主張がある)」「愿而恭(原則を堅持しているが人に対して恭しい)」「乱而敬(興奮した時でも恭敬である)」「擾而毅(雑乱とした時でも毅然としている)」「直而温(率直だが温和である)」「簡而廉(簡潔だが周到である)」「剛而塞(剛直だが人を満足させることができる。人の意見を聴くことができる)」「強而義(剛強だが道理を失わない)」です)、嬖倖(寵愛する者)が庭を充たしています。
阿母王聖は賎微の出身でありながら、千載(千年の好機)に遇うことができ、聖躬(皇帝)を奉養したので、確かに推燥居湿の勤(「推燥居湿」は乾いた場所を子に譲って自分は湿度が高い場所で寝るという意味です)があります。しかし、前後の賞恵が労苦に対して過度に報いています。それなのに満足の心が無くて紀極(際限)を知らず(無厭之心不知紀極)、外と交わって委託し(外交属託)、天下を擾乱(攪乱)し、清朝を損辱(損害汚辱)して日月(皇帝)を汚しています(塵点日月)。女子や小人というのは、近づければ喜び、遠ざければ怨むので、実に養い難いものです(『論語』に「女子と小人は養い難い(唯女子與小人為難養也)」という言葉があります)。速やかに阿母を出して外舍に住ませ、伯栄(との関係)を断絶して往来させなくするべきです。恩徳(王聖に対する今までに与えた報恩と嬖倖を偏愛しないという徳)を両隆(両立)させれば、上下ともに美(利点)があります(上下俱美)。」
上奏文が提出されると、安帝は阿母等に見せました。内倖(嬖倖)は皆、忿恚(憤懣怨恨)を抱くようになります。
 
伯栄の驕淫は特にひどく、故朝陽侯劉護の従兄劉瓌と姦通しました。劉瓌は伯栄を妻にしたため、官が侍中に到り、劉護の爵位を継承することができました。
資治通鑑』胡三省注によると、劉護は泗水王劉歙の従曾孫で、劉歙は光武帝の族父です(「従曾孫」は兄弟の曾孫ですが、実際は、劉護は劉歙の従弟の曾孫に当たります)
後漢書宗室四王三侯列伝(巻十四)』によると、劉歙の従父弟(従弟)に劉茂がおり、光武帝に帰順して中山王に封じられましたが、後に穰侯に遷されました。
劉茂の弟劉匡も漢兵と共に挙兵して宜春侯に封じられました。

劉匡の死後、子の劉浮が継いで朝陽侯に封じられました。
劉浮の後、孫の劉護まで国が継承されましたが、劉護に子がいなかったため廃されました。

尚、『資治通鑑』は、ここでは劉瓌を劉護の「従兄」としていますが、下の楊震の上書では「再従兄」になっています(『後漢書宗室四王三侯列伝(巻十四)』では「従兄」ですが、『後漢書楊震列伝(巻五十四)』では『資治通鑑』と同じく「従兄」「再従兄」の両方の記述があります)。「従兄」は共通の祖父を持つ関係、「再従兄」は共通の曾祖父を持つ関係です。
 
本文に戻ります。
楊震が上書しました「経制において、父が死んだら子が継ぎ、兄が亡くなったら弟に及ぶのは(父死子継兄亡弟及)、簒位を防ぐためです。伏して詔書を見るに、故朝陽侯劉護の再従兄劉瓌が劉護の爵を襲って(継承して)侯になりましたが、劉護の同産弟(同母弟)劉威はまだ健在です(今猶見在)。臣が聞くに、天子とは封を専らにして(天子には封侯の権利があって)功がある者を封じ、諸侯とは爵を専らにして(諸侯には爵位を得る権利があって)徳がある者が爵を得るものです(天子専封封有功,諸侯専爵爵有徳)。今、劉瓌は他に功行(功績徳行)がないのに、ただ、阿母の娘に配した(王聖の娘と結婚した)というだけで、一時の間に既に位が侍中になり、また封侯に至りました。旧制に則らず(不稽旧制)、経義に合わないので、行人(道行く人)が喧譁(喧噪。議論)して百姓が不安になっています。陛下は過去を鑑みて帝の準則に順じるべきです(宜鑒鏡既往順帝之則)。」
 
尚書広漢の人(『資治通鑑』は「広陵の人」としていますが、胡三省が「翟酺は広漢郡雒の人なので『広陵』は『広漢』が正しい」と解説しています)翟酺も上書しました「昔、竇鄧の寵は四方を傾動(震動)させ、(彼等は)多数の官職を兼任し(兼官重紱)、金を充たして家財を積み(盈金積貨)、更には神器(天子の位)を議弄(謀議侮弄。干渉、弄ぶこと)して社稷を改更するに至りました。勢尊威広(権勢が尊大で威望が広いこと)によってこの患いをもたらしたのではありませんか(豈不以勢尊威広以致斯患乎)。しかし彼等が破壊(破滅)に及んだ時は、頭が地に堕ちて、孤豚(小豚)になることを願ってもなれませんでした(頭顙墮地,願為孤豚豈可得哉)。徐々に富貴を得なかったら(そのような富貴は)必ず突然失います(致貴無漸失必暴)。受けた爵位が非道だったら必ずすぐに禍が訪れます(受爵非道殃必疾)
今、外戚・寵幸に対する功(功徳。恩徳)は造化(天地)と等しく、漢元(漢初)以来、等比(同等)の者がいません。陛下は誠に仁恩を普遍させることで(仁恩周洽)九族と親しくしていますが、禄が公室を去り(官位を与える権利が皇帝から臣下に移り)、政(政権)が私門に移り、前者の失敗を繰り返したら(原文「覆車重尋」。「覆車」は車が転倒すること、「重尋」は繰り返すことです)、どうして摧折(失敗。破滅)しないでいられるでしょう(寧無摧折)。これは最も安危に関わる極戒(大戒。警告)であり、社稷の深計です(此最安危之極戒,社稷之深計也)
昔、文帝が露台で百金を愛し(惜しみ)、皁囊(黒い袋)で帷帳を飾ったため(『資治通鑑』胡三省注によると、文帝は上書で使う皁囊を集めて殿帷を作りました)、その倹(倹約)を譏る者がいましたが、上(文帝)はこう言いました『朕は天下のために財を守っているのだ。どうして妄りに用いることができるか。』今は初政(親政開始)以来の日月が久しくないのに、費用賞賜が既に数えられなくなっています。天下の財を集めて(斂天下之財)無功の家に積んだら、国庫が尽きて(帑藏単尽)民物が彫傷(欠乏)します。もしも突然、不虞(不測の事態)があったら更に重賦が必要になるので、百姓に怨叛が生まれて危乱を待つだけとなります(危乱可待也)。陛下が勉めて忠貞の臣を求め、佞諂の党を誅遠し、情欲の歓(男女の歓び)を割き、宴私の好(私生活における好み)を廃し、亡国が国を失った理由を心に留め(心存亡国所以失之)、興王が天下を得た理由を鑑みること(鑒観興王所以得之)を願います。そうすれば、災害を止めて豊年(豊作)を招くこともできるでしょう(庶災害可息,豊年可招矣)。」
上書が提出されましたが、安帝はとりあいませんでした。
 
 
 
次回に続きます。