東漢時代178 安帝(二十八) 馮煥父子 122年(1)
今回は東漢安帝延光元年です。二回に分けます。
東漢安帝延光元年
壬戌 122年
しかし夫餘王の子が州郡と協力して高句驪を討破したという記述は昨年十二月にもあり、重複しています。
あるいは、昨年十二月に戦闘があり、本年二月になってから朝廷に報告が届いたため、『孝安帝紀』の記述が重複したのかもしれません。
徙者(移住した者)を故郷に帰らせて戸邑属籍を元に戻しました。
民爵を下賜し、三老・孝悌・力田には一人当たり二級を与えました(原文「賜民爵及三老孝悌力田人二級」。民に一人当たり一級の爵位を、三老・孝悌・力田には二級を下賜したのだと思います)。加えて鰥寡(配偶者を失った男女)、孤独(孤児や身寄りがない老人)、篤𤸇(重病の者)、貧困のため自存できない者には一人当たり粟三斛を、貞婦には一人当たり帛二匹を下賜しました。
護羌校尉・馬賢が麻奴を追撃して湟中に到り、これを破りました。
麻奴の種衆(部衆)は離散逃走しました。
夏四月、京師と四十一の郡国で雹が降りました。
河西で降った雹で大きい物は斗(ます。杓)ほどもありました。
『資治通鑑』の「四十一の郡国」は「二十一」の誤りのようです。
延光元年、河西で大いに雹が降り(大雨雹)、大きい物は斗ほどもありました。そこで安帝が孔季彦(孔僖の子)を招いて徳陽殿で引見し、自ら天災について質問しました。
孔季彦はこう答えました「これは全て陰が陽に乗っている徵(兆し)です。今は貴臣が擅権し、母后の党が盛んになっているので、陛下は聖徳を修め、この二者を考慮するべきです。」
安帝は黙ってしまい、左右の者は皆、孔季彦を嫌いました。
幽州刺史・馮煥と玄菟太守・姚光は頻繁に姦悪を糾弾告発しました。
更に遼東都尉・龐奮に命じて速やかに刑を執行させました。
龐奮は姚光を斬って馮煥を逮捕します。
『資治通鑑』胡三省注によると、本年四月に「甲戌」はないので、日付はわかりません。
本文に戻ります。
馮煥は自殺しようとしましたが、子の馮緄が詔文の異常を疑い、馮煥を止めてこう言いました「大人が州にいた時、志は悪を除くことだけを欲し、確かに他の事はありませんでした(実無他故)。凶人が妄りに偽り、姦毒を謀ってほしいままにしたに違いありません(必是凶人妄詐,規肆姦毒)。この事を(馮煥が)自ら報告することを願います(願以事自上)。(その後)甘んじて罪を受けても晩くはありません(甘罪無晚)。」
馮煥はこの言に従って弁明の上書をしました。
その結果、ある者が詔を偽っていたことが判明します。
朝廷は龐奮を呼び戻して処罰しました。
癸巳(十九日)、司空・陳褒を罷免しました。
五月庚戌(初七日)、宗正・彭城の人・劉授を司空に任命しました。
『孝安帝紀』の注によると、宗正卿の秩は中二千石です。劉授の字は孟春といい、徐州武原の人です。
己巳(二十六日)、河間孝王・劉開の子・劉徳(または「劉得」)を安平王に封じて楽成靖王・劉党(明帝の子)の後を継がせました。
安帝建光元年(121年)に楽成王・劉萇が臨湖侯(または「蕪湖侯」)に落とされまたため、楽成靖王の祭祀が途絶えていました。そこで今回、劉徳を封王しました。但し、楽成王国は廃されて安平王国に改名されます。
劉徳の父・河間孝王・劉開は章帝の子です。「劉徳」は『後漢書・章帝八王伝(巻五十五)』の記述で、『後漢書・孝安帝紀』と『後漢書・孝明八王列伝(巻五十)』では「劉得」です。『資治通鑑』は『章帝八王伝』に従っています。
六月、郡国で蝗害がありました。
高句驪王・遂成が漢から奪った生口(捕虜)を還し、玄菟を訪ねて投降しました。
己亥、安帝が三公、中二千石に詔を発しました。視事(政務を行うこと)が一年以上から十年に及ぶ刺史、二千石、令・長、相を対象に、清白・愛利(『孝安帝紀』の注によると、人を愛して人を利すという意味です)で自分の身を正して下の者を率い、姦悪を防いで煩雑を整理することができて(能勑身率下防姦理煩)、人々に対して益となる者を、官簿(官界での経歴)に拘らずに挙げさせます。
刺史は所部(部下。管轄する地の官員)を挙げ、郡国の太守・相は墨綬(『孝安帝紀』の注によると「墨綬」は主に県の令・長を指します)を挙げ、自ら確認して心を尽くし、浮華の者(表面だけ飾った中身がない者)を取とらないようにさせました(隠親悉心勿取浮華)。
冬十月、鮮卑がまた雁門、定襄を侵しました。
十一月、太原を侵しました。
焼当羌の豪・麻奴が飢困したため、種衆(部衆)を率いて漢陽太守・耿种を訪ね、投降しました。
十二月、九真徼外(界外)の蛮夷が貢献して内属しました。
この年、京師と二十七の郡国で大雨と大風によって人が死にました(雨水大風殺人)。
安帝が詔を発し、七歳以上で圧死や溺死した者に一人当たり銭二千を下賜しました。
廬舍(家)が破壊されたり穀食を失った者には一人当たり粟三斛を下賜しました。
あるいは秋に穀羅城を攻めて失敗したため、冬になって再び攻撃し、また撃退されたのかもしれません。
『資治通鑑』は冬の記述を省略しています。
次回に続きます。