東漢時代179 安帝(二十九) 黄憲 122年(2)

今回は東漢安帝延光元年の続きです。
 
[二十] 『資治通鑑』からです。
安帝がしばしば黄門、常侍や中使(宮廷の使者)伯栄を派遣して甘陵(安帝の父母の陵。清河にあります)を往来させました。
尚書僕射陳忠が上書しました「今はまだ天心を得ておらず、水旱が際限なく訪れています(原文「隔幷屢臻」。訳は『資治通鑑』胡三省注の解説(水旱不節)を元にしました)。青冀の域青州冀州領域)では淫雨(長雨)のため河が漏れ黄河の堤防が決壊しているという意味です。原文「淫雨漏河」)、徐岱(『資治通鑑』胡三省注によると、海岱渤海泰山)から淮水一帯は徐州に属すので、「徐岱」といいます)の浜では海水が溢れ(海水盆溢)、兗豫では蝗蝝(「蝝」は蝗の幼虫です)が滋生(繁殖)し、荊揚では稲の収穫が減少し(稲收儉薄)、并涼二州では羌戎が叛戾(叛逆)しており、更に百姓の不足(困窮)と府帑の虚匱(空虚)が加わっています。
陛下は自ら孝徳皇園廟を奉じることができないので、繰り返し中使を派遣して甘陵に致敬(恭敬を表すこと。ここでは祭祀の意味です)しており、朱軒駢馬(二頭の馬が牽く赤い車)が道路で相望していて(道に連なり)、まさに孝至(最大の孝心)といえます。しかし臣が窺い聞いたところでは、使者が通る場所では威権が翕赫(盛大。顕著)で郡県を震動させており、王二千石が伯栄のために車の下で独拝(特別な敬礼)することもあります。民を徴発して道を修め、亭伝(駅舎)を繕理(修繕)し、多くの儲(必需品の蓄え)を設け、徵役に度(限度。際限)がなく、老弱も(労役に)従い(老弱相隨)、動いたら(役夫が)万を数え(動有万計)、僕従(朝廷の使者の従僕)に贈る礼物は一人(絹)百匹を数えます(賂遺僕従人数百匹)。そのため(民は)地に倒れて哀嘆しており、叩心(胸を叩くこと。怨恨や悲痛の様子です)しない者はいません(頓踣呼嗟莫不叩心)。河間は叔父の属を託し(河間王劉開は章帝の子で安帝の叔父です)、清河には陵廟の尊があるのに、剖符の大臣(皇帝が任命した大臣)に及んでも、皆、腰を低くして伯栄のために車の下で節を屈しています(猥為伯栄屈節車下)。陛下がこれを不問にしたら、(人々は)必ず陛下がこうなることを欲していると思うでしょう。伯栄の威は陛下より重く、陛下の柄(権柄)が臣妾にあるので、水災の発生は間違いなくこれが原因です(水災之発必起於此)。昔、韓嫣西漢武帝の寵臣。韓王信の子孫で男です)が副車の乗に託して馳視の使を受けた時(皇帝の副車に乗って視察する使命を受けた時)、江都(江都王)が誤って一拝したため、韓嫣は歐刀の誅を受けました。臣は明主が天元の尊を厳しくし、乾剛の位を正すことを願います(「乾剛」は天道が剛健なことです。ここでは「天元」「乾剛」とも天子を指します)。二度と女使(女の使者)を万機(政務)に干錯(干渉)させてはなりません。
左右の者を重察(重ねて考察すること、または慎重に考察すること)した時、石顕のような漏泄(漏洩)の姦がないでしょうか西漢元帝時代、陳咸が宦官石顕を批判したため、漏泄の罪によって投獄されました。元帝建昭二年37年参照)尚書の納言(進言)において、趙昌が鄭崇を讒言したような詐(趙昌譖崇之詐)はないでしょうか尚書趙昌の讒言によって鄭崇が獄死しました。哀帝建平四年3年参照)?公卿大臣には、朱博が傅氏におもねって援けを得たようなこと(朱博阿傅之援)はないでしょうか(朱博は外戚傅氏におもねって御史大夫になり、後には丞相に任命されました。建平二年5年参照)?外属近戚には王鳳が王商を害したような謀がないでしょうか外戚王鳳は丞相王商を怨んだため、誹謗して失脚させました。成帝河平四年25年参照)?もし国政が一貫して帝命によって為されるのなら、王事はいつも(陛下)自身によって決定され、下は上を逼迫できなくなり、臣は君を侵せなくなるので(下不得偪上臣不得干君)、常雨(長雨)大水(洪水)が必ず霽止(停止。雨が止んで晴れること)して、四方の衆異(多数の災異)が害を為せなくなります。」
上書が提出されましたが、安帝はとりあいませんでした。
 
当時は三府(三公。太尉司徒司空)の任(実権)が軽くなり、機事(中枢の政務)は主に尚書に委ねられていました。しかし災眚変咎(災害災異)があるといつも三公が譴責罷免されました。
陳忠が上書しました「漢興以来の旧事では、丞相が請うたら採用しない事はありませんでした(丞相所請靡有不聴)。しかし今の三公は、その名はあってもその実がなく、選挙誅賞は一律して尚書によって行われ、尚書の現在の任務は三公より重くなっており、(三公の)陵遅(衰弱)が始まってから、しだいに久しくなっています(陵遅以来其漸久矣)(このような状況に対して)臣忠()の心は常に独りで不安を抱いています。最近は地震が原因で司空陳褒を策免しました。今回の災異でもまた三公を切讓(譴責)しようと欲しています。昔、孝成皇帝は妖星が心宿を守ったことを理由に(妖星守心)、咎を丞相(翟方進)に移しましたが(成帝綏和二年7年参照)、最後は上天の福を蒙ることなく、いたずらに宋景の誠(宋景公が臣民を愛した美徳)から乖離しました。ここから、是非の分(道理。責任)とは明らかに帰すところがあると分かります(故知是非之分較然有帰矣)。また、尚書が事を決する時は、多くが故典(旧制)に違え、罪法に例(前例)がなく、詆欺(誹謗欺瞞)が先にあり、文章は残虐で発言は醜く(文惨言醜)、章憲(法律)から乖離していることがあります。(陛下は)その意を責求(追究)し、それらを却下して聴かず(割而勿聴)、上は国典に順じ、下は(臣下の)威福を防ぎ、規矩(直角や円を描く道具)によって方円を描き、衡石(重量を量る石)によって軽重を量るべきです(原文「置方員於規矩,審軽重於衡石」。正しい法制に則って事を決するべきだという意味です)。これは誠に国家の典(制度)、万世の法です。」
 
[二十一] 『資治通鑑』からです。
汝南太守山陽の人王龔は寛和な政治を貴び(政崇寛和)、才を好んで士を愛しました。
王龔は袁閬を功曹に任命し、また、郡人の黄憲、陳蕃等を招いて任用しようとしました。
黄憲は従いませんでしたが(不屈)、陳蕃は招きに応じて官吏になりました。
 
袁閬は特別な節操を修めたわけではありませんが(不修異操)、名声がありました。
陳蕃は性格気質が高明でした。
王龔が二人を礼遇したため、群士で帰心しない者はいませんでした。
 
黄憲は代々貧賎で、父は牛医でした。
潁川の荀淑が慎陽に至った時(『資治通鑑』胡三省注によると、慎陽県は汝南郡に属します。黄憲はこの県の人です)、逆旅(客舎。旅館)で黄憲に遇いました。
黄憲はこの時十四歳です。
荀淑は黄憲を異才だと判断して恭敬な態度をとり(竦然異之)、揖礼してから話をしました。
その結果、日が移っても(長い時間が経っても)去れないほど話し込み、黄憲に「あなたは私の師表(模範)です(子,吾之師表也)」と言いました。
荀淑が袁閬のいる場所まで行きました。袁閬が労問(慰労。挨拶)する前に、荀淑が逆に「子(あなた)の国(『資治通鑑』胡三省注によると、袁閬は汝南汝陽の人です)には顔子孔子の高弟顔回がいます。知っていますか(寧識之乎)?」と問いました。
袁閬は「我が叔度に会ったのか(見吾叔度耶)?」と問い返しました。
叔度は黄憲の字です。
 
当時、同郡の戴良が高才で倨傲(驕慢自大)でしたが、黄憲に会ったら必ず姿勢を正しました(正容)
戴良が家に帰った時は何かを喪失したかのようです(罔然若有失也)
戴良の母が問いました「汝はまた牛医の児(子)の所から来たのですか?」
戴良が答えました「良(私)が叔度に会う前は、自分では(彼に)及ばないことがないと思っていました。しかしその人に会ってみると、前にいるのを見たと思ったら突然後ろにいるようで(原文「瞻之在前,忽然在後」。『論語』の中で顔回孔子について語った言葉が元になっています)、全く測りがたい存在でした(固難得而測矣)。」
 
陳蕃と同郡の周挙もかつて陳蕃と互いにこう語りました「時月(『資治通鑑』胡三省注によると、「三カ月」で「一時」なので、「時月」は「三カ月程度の時間」だと思います)の間に黄生に会わなかったら、鄙吝の萌(卑怯な念頭)が再び心に生まれてしまう(鄙吝之萌復存乎心矣)。」
 
太原の郭泰は若い頃、汝南で遊び、袁閬を訪ねましたが、泊まらずに去りました。
その後、黄憲に会いに行くと、日を重ねてからやっと帰りました。
ある人がこの事について郭泰に問いました。
郭泰が言いました「奉高(袁閬の字)の器は氿濫(小泉)のようなもので、清らかだが汲みやすい(雖清而易挹)。叔度は汪汪(旺盛な様子)として千頃陂(大きな池)のようであり、澄ませようとしても清らかにならず、混ぜようとしても濁らず、量ることができない(澄之不清,淆之不濁,不可量也)。」
 
黄憲はかつて孝廉に挙げられ、公府(三公府)にも召され、友人が仕官を勧めた時も拒否しませんでした。
しかし暫く京師を訪ねただけですぐに還り、結局、官職に就きませんでした。
享年は四十八歳です。
 
 
 
次回に続きます。