東漢時代180 安帝(三十) 西域経営 123年(1)

今回は東漢安帝延光二年です。
 
東漢安帝延光二年
癸亥 123
 
[] 『資治通鑑』からです。
春正月、旄牛夷が叛しましたが、益州刺史張喬が攻撃して破りました。
資治通鑑』胡三省注によると、西漢時代は蜀郡に旄牛県がありましたが、東漢になって廃されました。
 
後漢書孝安帝紀』は「旄牛夷が叛して霊関(霊関は越雟郡に属す「道」です。「道」は県と同格の行政区です)を侵し、県令を殺した。益州刺史、蜀郡西部都尉がこれを討った」と書いています。
後漢書南蛮西南夷列伝(巻八十六)』にも「延光二年春、旄牛夷が叛して零関を攻め、長吏を殺した。益州刺史張喬と西部都尉がこれを撃って破った。そこで蜀郡属国都尉を分けて置き、四県を管轄させて太守と同等にした」とあります。
後漢書郡国志五』は「蜀郡属国は元々西部都尉に属していたが、延光元年122年)に属国都尉が置かれ、別に四城を領した」としていますが、恐らく「延光二年」の誤りです。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』からです。
安帝が詔を発して三署郎(五官署と左右署の郎)および吏人の中から『古文尚書』『毛詩』『穀梁春秋』に精通できる者をそれぞれ一人選ばせました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀からです。
丙辰、河東と潁川で大風が吹きました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
夏四月戊子(二十日)、安帝の乳母王聖に野王君の爵位を与えました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
北匈奴が車師と結んで河西に入寇しました。
東漢の議者は再び玉門と陽関を閉じて禍患を絶つことを欲します。
資治通鑑』胡三省注によると、玉門と陽関は敦煌西界の関です。
 
敦煌太守張璫が上書しました「臣が京師にいた時は、同じく西域を棄てるべきだと考えましたが、今、自らこの土地を踏んでからは、西域を棄てたら河西が自存できなくなると知りました。謹んで西域の三策を述べます。北虜呼衍王は常に蒲類秦海の間で展転(往来)しており、転じて西域を制し、共に寇鈔(略奪)を為しています。よって、酒泉属国の吏士二千余人を昆侖塞(『資治通鑑』胡三省注によると、敦煌郡広至県に昆侖障があり、宜禾都尉がいました)に集め、先に呼衍王を撃ってその根本を絶ち、その機に鄯善の兵五千人を発して車師後部を脅かします。これが上計です。もし兵を出せないようなら、軍司馬を設けて士五百人を率いさせ、四郡(武威酒泉張掖敦煌から犂牛(農耕に使う牛)や穀食を提供し、(塞を)出て柳中を占拠します。これが中計です。もしそれもできないようなら、交河城を棄てて鄯善等を収攬し、全て塞に入らせます。これが下計です。」
 
朝廷はこの意見を群臣に討議させました。
陳忠が上書しました「西域が内附した日は久しく、区区(小さい様子)として東を望み、関を叩く者も少なくありません(区区東望扣関者数矣)。これは匈奴を楽しまず、漢を慕っている效(効果。証拠)です。今、北虜は既に車師を破ったので、必ず南の鄯善を攻める形勢にあります。これを棄てて救わなかったら諸国が匈奴に)従うでしょう。もしそうなったら、虜の財賄(財物)がますます増えて膽勢(度胸と勢力)がますます成長し(益殖)、威が南羌(『資治通鑑』胡三省注によると、湟中と南山の諸羌を指します)に臨んでこれと交通(交流)します。こうなったら河西四郡が危くなります。河西が既に危うくなったら救わないわけにはいかず、百倍の役を興こして不訾の費(数えられない費用)を発することになります。議者はただ西域が絶遠であることを念じて煩費(大量な出費)を考慮し(卹之煩費)、孝武による苦心勤労の意を見ていません。今の敦煌は孤危(孤立危険)にあり、遠くから急を告げに来ています。それでも輔助しないようなら、内は吏民を慰労できず、外は百蛮に威を示すことができず、国を縮めて領土を減らすことになるので(蹙国減土)、良計ではありません。臣が思うには、敦煌に校尉を置き、旧例に則って四郡の屯兵を増やし、そうすることで西の諸国を慰撫するべきです。」
安帝はこの意見を採用し、改めて班勇を西域長史に任命しました。兵五百人を率いて塞を出て、柳中に駐屯させます(張璫の中計に当たります)
 
[] 『後漢書孝安帝紀からです。
夏六月壬午、十一の郡国で大風が吹きました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀からです。
九真が「嘉禾が生えた」と報告しました。
『孝安帝紀』の注によると、禾は百五十六本あり、七百六十八の穂がつきました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀からです。
丙申、北海王劉普が死にました。
 
劉普の諡号は頃王です(和帝永元八年96年および安帝永初元年107年参照)
後漢書宗室四王三侯列伝(巻十四)』によると、劉普の子恭王劉翼が継ぎました。



次回に続きます。