東漢時代182 安帝(三十二) 孔子の子孫 124年(1)

今回は東漢安帝延光三年です。三回に分けます。
 
東漢安帝延光三年
甲子 124
 
[] 『資治通鑑』からです。
春正月、班勇が楼蘭に到着しました。鄯善が帰附したため、特別に三綬を加えます。
「三綬」というのは『後漢書班梁列伝(巻四十七)』の記述で、『資治通鑑』もそれに倣っていますが、胡三省注は、恐らく「王綬」の誤りとしています。
 
亀茲王白英が躊躇して帰順しなかったため、班勇は恩信によって導きました。
その結果、白英が姑墨、温宿を従えて、自分を縛って班勇を訪ねました。
 
班勇はこの機に亀茲等の歩騎兵一万余人を徴発し、車師前王庭に入りました。匈奴の伊蠡王を伊和谷で撃って走らせ、車師前部の五千余人を収容します。
車師前部は再び東漢と関係を結びました。
 
班勇は引き返して柳中で屯田しました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
二月丙子(十三日)、車駕(皇帝)が東巡しました。
 
丁丑(十四日)、陳留太守に告げて南頓君と光武皇帝を済陽(陳留郡に属します)で祀らせ、済陽の本年の田租芻稾(飼料)を免除しました(復済陽今年田租芻稾)
 
庚寅(二十七日)、安帝が使者を送って成陽で唐堯を祀りました。
『孝安帝紀』の注によると、成陽の東南に堯冢(帝堯の墓)があります。
 
戊子(二十五日。「庚寅」の記述と順番が逆になっています。あるいは「庚寅」は「庚辰(十七日)」の誤りです)、済南が「鳳皇鳳凰が台県丞霍收の舍(家)の樹の上に止まった(または「集まった」。原文「鳳皇集台県丞霍收舍樹上」)」と報告したため、安帝が台長(県長)に帛五十匹を、丞に二十匹を、尉にはその半分を、吏卒には一人当たり三匹を下賜しました。
また、鳳皇が通った亭部(亭の管轄区)は本年の田租を免除し(無出今年田租)、男子に一人当たり爵二級を与えました。
 
辛卯(二十八日)、太山(泰山郡)行幸して岱宗(泰山)で柴告(火を焚いて天を祭る儀式)を行いました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』はここで「斉王劉無忌、北海王劉翼、楽安王劉延が来朝した」と書いています。
しかし当時の楽安王は劉鴻で、安帝が死んでから始めて封国に就くので(安帝建光元年121年参照)、「来朝した」という記述は相応しくありません。
あるいは清河王劉延平東漢安帝永初三年109年参照)の誤りかもしれません。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』からです。
壬辰(二十九日)、汶上の明堂で五帝を宗祀(祖宗に配して祀ること)しました。
癸巳(三十日)、二祖(高帝と光武帝六宗(『孝安帝紀』の注によると、孝文帝が太宗、孝武帝が代宗、孝宣帝が中宗、孝元帝が高宗、孝明帝が顕宗、孝章帝が粛宗です)に対して告祀(報告の祭祀)を行いました。
その後、郡県を慰労して賞賜を与え、宴を開きました(労賜郡県作楽)
 
[五] 『後漢書孝安帝紀』からです。
三月甲午(初一日)、陳王劉崇が死にました。
 
劉崇は陳敬王劉羨の子、明帝の孫です(安帝永寧元年120年参照)
後漢書孝明八王列伝(巻五十)』によると、劉崇の諡号は頃王で、子の孝王劉承が継ぎました。
 
[六] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月戊戌(初五日)、魯を行幸して闕里で孔子と七十二人の弟子を祀りました。魯相、令尉および孔氏の親属婦女諸生が全て集まります。襃成侯(褒成侯)以下にそれぞれ差をつけて帛を下賜しました。

襃成侯は孔子の子孫です。
光武帝建武十四年38年)孔子の子孫孔志が襃成侯(褒成侯)に封じられ、孔志の跡を孔損が継ぎました(章帝元和二年85年参照)
後漢書儒林列伝上(巻七十九上)』の本文と注によると、孔損は和帝永元四年(92)に褒亭侯に遷されています。
孔損の死後は子の孔曜が継ぎ、孔曜の死後は子の孔完が継ぎ、代々継承して東漢献帝時代の初期に国が絶えました。しかし魏になってから孔羨が崇聖侯に封じられ、その後も歴代王朝が孔子の子孫を封侯します。
『欽定四庫全書山東通志(巻十一之六)』に更に詳しく書かれています(『儒林列伝』とは若干異なります)
襃成侯・孔志は孔子の十七代後の子孫に当たります。孔損は字を君益といい、章帝(明帝の誤りです)永平十五年72年)に孔志の爵位を継ぎました。和帝永元四年(92)に褒亭侯に遷されます。
孔損の後は子の孔曜が継ぎました。字は君曜です。
孔曜は孔完と孔讃という二子を生みました。孔曜の死後、孔完が爵位を継ぎましたが、子がいなかったため、弟孔讃の子孔羨が孔完の跡を継ぎました。
孔羨の字は子餘といい、魏文帝黄初元年に議郎に任命され、宗聖侯に封じられました。
『儒林列伝』の注は孔羨を「崇聖侯」としていますが、「崇聖侯」は北魏になってからの爵位なので、「宗聖侯」が正しいはずです。
 
本年(延光三年124年)、安帝が行幸した時は孔曜の代だと思われます。爵位は「襃成侯」ではなく、「褒亭侯」が正しいはずです。
 
[七] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
安帝が引き返して東平を行幸し、東郡に到り、魏郡、河内を経由して帰路につきました。



次回に続きます。