東漢時代183 安帝(三十三) 楊震の死 124年(2)

今回は東漢安帝延光三年の続きです。

[] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
楊震が諫言を繰り返しても安帝が聞き入れなかったため、それを見た樊豊、周広、謝惲等は憚ることがなくなり、偽りの詔書を作りました。司農の銭穀や大匠の見徒(現有の徒夫)・材木を調達してそれぞれ家舎(『資治通鑑』は「冢舍(墓守用の家)」としていますが、『後漢書楊震列伝(巻五十四)』では「家舎」です。恐らく『資治通鑑』が誤りです)、園池、廬観(楼閣亭台)を建て、役費(労役と費用)が無数になります。
 
この頃、楊震がまた上書しました「臣は台輔(三公の位)に備わっていますが、陰陽を調和できないため、去年十二月四日に京師の地が動きました。その日は戊辰で、三者(「地」「戊」「辰」)は全て土に属し、位置は中宮でした(十干の「戊」と十二支の「辰」は五行の土徳に属します。「中宮」は京師を指します。地震は雒陽で起きました)。これは中臣、近官が権勢を握って政治を行っている象(持権用事之象)です。臣が伏して思うに、陛下は辺境が安寧になっていないので、自ら倹約して(躬自菲薄)、宮殿の垣屋(壁や屋根)が傾倚しても(傾いても)枝拄した(支えた)だけでした。しかし親近の倖臣は断金を崇めず(陛下と同心になることを重視せず。原文「未崇断金」。「断金」は「同心」の意味で、『周易』の「二人同心,其利断金(二人が同心になれば、その鋭利さは金属を断つこともできる)」が元になっています)、驕慢が盛んになって法を超え(驕溢踰法)、多くの徒士(役夫)を請い、第舍(邸宅)を盛んに修築し、威福を売弄(顕示)しているため、道路が讙譁しています(道行く人が議論しています)。地動の変は恐らくここから発したのでしょう(殆為此発)。また、冬に宿雪(積雪)がなく、春の節にもまだ雨が降らず、百僚(百官)が焦心(憂慮)しているのに、繕脩(修築)が止みません。誠に致旱の徵(旱害をもたらす兆し)です。陛下が乾剛の徳(帝王の剛健な徳)を奮わせ、驕奢の臣を棄てて、そうすることで皇天の戒を受け入れることを願います。」
 
楊震は前後して上書を繰り返し、内容が激切になっていきました。
安帝は既に不満を抱えており、樊豊等も皆、楊震を横目で見て憤怨していましたが(側目憤怨)楊震が名儒だったため、害を加えることができませんでした。
 
ちょうどこの頃、河間の男子趙騰が上書して政治の得失を指摘しました。
安帝は怒って趙騰を逮捕し、詔獄で拷問しました(收考詔獄)。上を欺いて不道を行った罪に陥れます。
楊震が趙騰を助けるために上書しました「臣が聞くに、殷周の哲王(明哲な王)は小人が怨詈(怨恨罵詈)しても還らせて自ら徳を敬いました(自身を反省して徳を修めました)。今、趙騰が坐したのは激訐謗語(激烈な誹謗の言葉)の罪であり、彼が為した罪と刃を手にして法を犯した罪とでは差があるので、虧除(減免)して趙騰の命を全うさせることで、芻蕘輿人(「芻蕘」は柴を刈る人、身分が低い人です。「輿人」は衆人です)の言を誘うことを乞います。」
安帝は諫言を聴かず、趙騰は京師の市で処刑されました(伏尸都市)
 
安帝が東巡を開始すると、樊豊等は乗輿(皇帝)が外にいる間に競って第宅(邸宅)を修築しました。
太尉部掾楊震に属す掾)高舒が大匠令史を招いて考校(考査)させた結果、樊豊等が作った偽の詔書を得ます。
楊震は全てを上奏文に書いて、安帝の帰還を待って提出することにしました。
それを知った樊豊等が惶怖(恐慌)します。
 
ちょうど、太史が星変逆行(星に異変が発生して逆行したこと)を報告しました。
樊豊等はこれを利用して共に楊震を讒言しました「趙騰が死んでから、楊震は)深く怨懟(怨怒)を用いており(深く怨懟を抱いており)、しかも鄧氏の故吏は恚恨(怨恨)の心があります楊震は鄧騭によって登用されたので「鄧氏の故吏」と言いました)。」
 
壬戌(二十九日)、車駕(皇帝)が京師に還り、太学に入って吉日を待ちました(原文「便時太学」。『資治通鑑』胡三省注が「太学で吉時(吉日)を待ってから入宮した」と解説しています)
その夜、安帝が使者を送り、策書によって楊震から太尉の印綬を回収しました。
楊震はこの後、柴門(門を塞ぐこと)して賓客との関係を絶ちます。
 
しかし樊豊等はまだ楊震を嫌悪しており、大鴻臚耿宝にこう上奏させました「楊震は大臣でありながら罪に服さず、心中に恚望(怨恨)を抱いています。」
 
安帝が詔を発して楊震を本郡に帰らせました。
資治通鑑』胡三省注によると、楊震は弘農華陰の人です。
 
楊震は城西の夕陽亭(『後漢書楊震列伝(巻五十四)』では「几陽亭」です)に至った時、慷慨(激昂)して諸子や門人にこう言いました「死とは士の常分(本分)である。私は恩を蒙って上司(高位)に居たが、姦臣の狡猾を憎んだのに誅殺することができず(疾姦臣狡猾而不能誅)、嬖女(寵愛する妃嬪)による傾乱(混乱。錯乱)を嫌ったのに禁じることができなかった(悪嬖女傾乱而不能禁)。何の面目があってまた日月を見られるだろう(また皇帝に会えるだろう)。この身が死ぬ日は、雑木で棺を作り、布は単被(一枚の薄い掛布団)を使って形(死体)を覆うことができれば充分だ(布単被裁足蓋形)。冢次墓所。先祖代々の墓地)に帰す必要はなく、祭祀を設ける必要もない。」
楊震は酖毒を飲んで死にました。
 
弘農太守移良(『資治通鑑』胡三省注によると、斉の公子雍が移を食邑にしたため、後代がそれを氏にしました)が樊豊等の旨(意向)を受けて官吏を派遣し、陝県で楊震の喪(霊柩)を留めて道の傍で棺を露わにさせました(埋葬させませんでした)
また、楊震の諸子を譴責して郵(駅吏)の代わりに文書を伝送させました。
路上の人々は皆その様子を見て涙を流しました。
 
太僕征羌侯来歴が言いました「耿宝は元舅の親(帝の母の兄という親戚関係。『後漢書耿弇列伝(巻十九)』によると、安帝の嫡母(清河王劉慶の正妻)耿姫は耿宝の妹です)に託して栄寵が過度に厚くなっているのに、国恩に報いることを念じず、逆に姦臣に傾側(傾斜)して忠良を傷害した。天禍はすぐに至るだろう(其天禍亦将至矣)。」
 
来歴は来歙の曾孫です。
資治通鑑』胡三省注によると、来歙が羌隴を平定したため、光武帝が汝南当郷県を征羌国に改めて封侯しました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月乙丑(初二日)、車駕(皇帝)が皇宮に入り、その後、祖禰(祖父と父の廟)に到りました(假于祖禰)
 
[] 『後漢書孝安帝紀』からです。
壬戌、沛国が「甘露が豊県に降った」と報告しました。
 
[十一] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
戊辰(初五日)、光禄勳馮石を太尉にしました。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
単于(萬氏尸逐鞮単于。和帝永元十年98年参照)が死に、弟の抜が立ちました。これを烏稽侯尸逐鞮単于といいます。
 
当時は鮮卑がしばしば辺境を侵していたため、度遼将軍耿夔と温禺犢王呼尤徽が新降の者(近年、東漢に帰順した者)を率いて、連年、塞から出撃し、戻ってからは新降の者を要衝に駐屯させていました。
しかし耿夔の徴発が頻繁で負担が重かったため、新降の者は皆、怨恨を抱き、ついに大人阿族(人名)等が反しました。
阿族等は呼尤徽を脅迫して共に去ろうとします。
しかし呼尤徽はこう言いました「わしは既に老いた(我老矣)。漢家の恩を受けたので、死ぬことはあっても従うことはできない(寧死不能相隨)。」
人々が呼尤徽を殺そうとしましたが、一部の者が呼尤徽を助けたため禍を免れました。
 
阿族等は自分の衆を率いて逃亡しました。
しかし中郎将馬翼と胡騎が追撃して破り、ほぼ全員を斬獲しました。
 
後漢書孝安帝紀』は「五月、南匈奴の左日逐王が叛した。匈奴中郎将馬翼にこれを討破させた」と書いていますが、『後漢書南匈奴列伝(巻八十九)』は、「新たに降った一部の大人(指導者)阿族等(新降一部大人阿族等)」と書いており、『資治通鑑』は『南匈奴列伝』に従っています。
中華書局『後漢書孝安帝紀』の校勘記は「叛したのは阿族等であって左日逐王ではない」と解説しています。

[十三] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
日南徼外(界外)の蛮夷が内属しました。
 

[十四] 『後漢書孝安帝紀と『資治通鑑』からです。

六月、鮮卑が玄菟を侵しました。
 

[十五] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。

庚午(初八日)、閬中で山崩れがありました。
資治通鑑』胡三省注によると、閬中県は巴郡に属します。曲折した閬水が県の三方を囲んでいたため、閬中が県名になりました。
 

[十六] 『後漢書孝安帝紀からです、

辛未(初九日)、扶風が「白鹿が雍に現れた」と報告しました。
 
[十七] 『後漢書孝安帝紀』からです。
辛巳(十九日)、朝廷が侍御史を派遣し、青冀二州に分かれて災害の巡視と盗賊逮捕の監督(督録盗賊)をさせました。 
 


次回に続きます。