東漢時代184 安帝(三十四) 太子廃位 124年(3)
今回で東漢安帝延光三年が終わります。
秋七月丁酉、右校令、左校丞の官を恢復しました。
日南徼外(界外)蛮の豪帥(指導者)が宮闕を訪ねて貢献しました。
鮮卑が高柳を侵しました。
梁王・劉堅が死にました。
戊子、潁川が「一頭の麒麟と二頭の白虎が陽翟に現れた」と報告しました。
王聖、江京、樊豊等が太子・劉保の乳母・王男や厨監(飲食を主管します)・邴吉等を誹謗して殺しました。家属は比景に遷されます。
太子は王男や邴吉を思ってしばしば嘆息しました。
怒った安帝は公卿以下の官員を招いて太子の廃位を議論させます。
耿宝等は(安帝の)意を受けて太子を廃すべきだと主張しました。
しかし太僕・来歴と太常・桓焉、廷尉・犍為の人・張皓が異議を唱えました「経が説くには、年が十五を満たさなかったら過悪はその身にありません。そもそも王男、邴吉の謀は、恐らく太子の知らなかったことです(容有不知)。忠良の保傅を選び、礼義によって輔佐させるべきです。廃置(廃立)の事は重大なので、誠に聖恩を留めるべきです(此誠聖恩所宜宿留)。」
安帝はこの意見に従いませんでした。
桓焉は桓郁の子で、桓郁は桓栄の子です(明帝永平二年・59年参照)。
張皓が退出してから再び上書しました「昔、賊臣・江充が讒言によって謀反の罪を着せ(造構讒逆)、戾園(戾太子・劉據の陵園。ここでは劉據を指します)を傾覆(転覆。滅亡)させました。孝武は久しくしてやっと覚寤(覚醒)し、前失を追いましたが(過去の失敗を補いましたが)、悔やんでも及びませんでした。今、皇太子はまだ十歳で、保傅の教えを習っていません(保傅の教育を受けていません)。どうして急いで責められるでしょう(可遽責乎)。」
上書が提出されましたが、やはり受理されませんでした。
九月丁酉(初七日)、皇太子・劉保を廃して済陰王にしました。徳陽殿西鍾(西の鐘楼)の下に住ませます。
『資治通鑑』胡三省注によると、徳陽殿は北宮の掖庭(後宮)内にありました。一万人を収容でき、正旦・節会で百僚が朝見します。正月旦(元旦)には天子が徳陽殿を行幸し、公卿・将・大夫・百官が朝賀に参加し、蛮・貊・胡・羌が朝貢を行い、属郡の計吏が朝覲し、宗室諸劉が雑会(集会)しました
来歴は光禄勳・祋諷、宗正・劉瑋、将作大匠・薛皓、侍中・閭丘弘(『資治通鑑』胡三省注によると、閭丘が姓です。斉に閭丘嬰がいました)、陳光、趙代、施延、太中大夫・九江の人・朱倀等十余人と結び、共に鴻都門を訪ねて太子に過ちがないことを証明しようとしました。
安帝と左右の者はこれを憂います。そこで中常侍に詔を奉じて群臣を脅させました。詔の内容はこうです「父子が一体なのは自然な天性である(父子一体天性自然)。義によって恩を割くのは天下のためである。来歴、祋諷等は大典を知らず、群小と共に讙譁(喧噪)を為し、外は忠直に見せて内では後福(太子が即位した後の福)を願い、邪を飾って義に違えている。これが君に仕える礼であろうか(豈事君之礼)。朝廷は広く言路(発言の道)を開いているので、暫くは一切を寛恕する(且一切假貸)。もしまだ迷いを抱いて(正道に)帰らないようなら、刑書を示して明らかにする(若懐迷不反当顕明刑書)。」
諫言に来た者達は皆、顔色を失いました。
薛皓が真っ先に頓首して言いました「元より明詔の通りにするべきです(固宜如明詔)。」
来歴が憤怒して薛皓を廷詰(朝廷、または朝臣の前で詰問すること)しました「先ほど共に諫めた時は何と言ったのだ(原文「属通諫何言」。『資治通鑑』胡三省注によると、「属」は「近」、「通」は「共」の意味です)?今またそれに背すのか(而今復背之)?大臣が朝車に乗って国事を処理するのに、このように輾転(反転。反覆)することが許されているのか(固得輾転若此乎)!」
諫言に来た者はしだいに自ら引き下がりましたが、来歴だけは宮闕を守り、連日去ろうとしませんでした。
安帝は来歴兄弟の官を免じて国租(封国の田租。収入)を削り、来歴の母・武安公主を廃して入宮・会見ができないようにしました。
『資治通鑑』胡三省注によると、武安公主は顕宗明帝の娘です。
また、右趾以下の囚人および亡命(逃走)している者にそれぞれ差をつけて贖罪させました。
隴西郡府を狄道に戻しました。
隴西郡府は安帝永初五年(111年)に襄武に遷されていました。
焼当羌の豪・麻奴が死に、弟の犀苦が立ちました。
庚申晦、日食がありました。
十一月乙丑(初六日)、雒陽に還りました。
「(延光)三年、雹が降り(雨雹)、雞子(鶏の卵)ほどの大きさだった。」「(延光)三年、京都と三十六の郡国で大風が吹いて樹木が倒れた(抜樹)」。
次回に続きます。