東漢時代185 安帝(三十五) 少帝即位 125年(1)

今回は東漢安帝延光四年です。三回に分けます。
 
東漢安帝延光四年
乙丑 125
 
[] 『後漢書孝安帝紀』からです。
春正月壬午、東郡が「二匹の黄龍と一頭の麒麟が濮陽に現れた」と報告しました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
二月乙亥(中華書局『白話資治通鑑』は「乙亥」を恐らく誤りとしています)、下邳王劉衍(恵王)が死にました。
 
劉衍は明帝の子です。『後漢書孝明八王列伝(巻五十)』によると、在位年数は五十四年に及びました。
子の貞王劉成が継ぎました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
甲辰(十七日)、車駕(皇帝)が南巡しました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月戊午朔、日食がありました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』『後漢書孝順孝沖孝質帝紀と『資治通鑑』からです。
庚申(初三日)、安帝が宛に至った時、体調を壊しました(不豫)
 
辛酉(初四日)、大将軍耿宝に命じて太尉の政務を代行させました(行太尉事)
 
安帝が章陵の園廟光武帝の父や先祖の園廟)を祀り、長沙と零陵の太守に告げて定王(劉発)、節侯(劉買)、鬱林府君(劉外)を祀らせました。
 
乙丑(初八日)、安帝が宛を出発しました。
丁卯(初十日)、葉に至った時、安帝が乗輿(皇帝の車)の上で死にました。三十二歳です。
 
閻皇后と閻顕兄弟、江京、樊豊等が謀って言いました「今、(陛下が)路上で崩御したが(原文「晏駕道次」。「晏駕」は直訳すると「皇帝の車の出発が遅くなる」ですが、「皇帝崩御」の意味で使われます。臣下は皇帝の死を直言できなかったため、「晏駕」と言いました)、済陰王(元皇太子劉保)が内(雒陽)にいる。もし、公卿が一旦に集まってこれを立てたら(我々にとっては)逆に大害になってしまう(邂逅公卿立之還為大害)。」
閻皇后等は喪を隠して「帝の疾(病)が甚だしい」と偽り、安帝を臥車に移しました。今まで通り、経由する場所で食事を献上したり起居を問います。
こうして四日間、車を駆けさせて雒陽に急行しました。
 
庚午(十三日)、一行が皇宮に還りました。
資治通鑑』胡三省注によると、葉から雒陽までは六百余里あります。
 
辛未(十四日)(閻皇后が)司徒劉熹を派遣し、郊廟と社稷で天を祭って命を請わせました(告天請命)
資治通鑑』胡三省注によると、西周武王が病を患った時、周公が三壇で同時に祭祀を行い、太王、王季、文王によって武王の命乞いをしました。閻皇后等は安帝の病が篤いと偽っているので、周公の故事に倣って安帝の命乞いをしました。
 
その夜(其夕)、安帝の喪を発しました。
閻皇后を尊んで皇太后とし、太后が政治を行います太后臨朝)
閻顕を車騎将軍に任命し、儀礼を三公と同等にしました(儀同三司)
 
後漢書孝安帝紀』は「太后の兄大鴻臚閻顕を車騎将軍に任命した」と書いていますが、二年前(安帝延光二年123年)の記述では閻顕は執金吾でした。いつ大鴻臚になったのかはわかりません。延光三年124年)に大鴻臚耿宝が大将軍に任命されているので、この時、閻顕が大鴻臚になったのかもしれません。
 
太后は久しく国政を専断したいと欲したため、幼年の新帝擁立を求めて、閻顕等と禁中で策を定めました。
その結果、済北恵王劉寿(章帝の子)の子北郷劉懿を迎えて安帝の後嗣に立てることになりました。
資治通鑑』胡三省注によると、『東観漢記』『続漢書』は「北郷劉犢」としていますが、『資治通鑑』は袁宏の『後漢紀』と范瞱の『後漢書』に従って「劉懿」としています。
 
済陰王劉保は皇太子の位を廃されたため、上殿して梓宮(皇帝の棺)に臨むことが許されず、悲痛のため号泣して食事もとらなくなりました。
内外の群僚でこれを哀しまない者はいませんでした。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
甲戌(十七日)、済南王劉香(孝王)が死にました。子がいなかったため国が廃されました。
劉香は簡王劉錯の子、安王劉康の孫で、劉康は光武帝の子です。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
乙酉(二十八日)北郷劉懿が皇帝の位に即きました。
劉懿の年齢は分かりません。また、即位後間もなくして死に、劉懿を擁立した閻氏も粛清されるため、諡号がありません。以下、『後漢書』の本紀は「少帝」、『資治通鑑』は「北郷侯」と書いています。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月丁酉(十一日)、太尉馮石を太傅に、司徒劉熹を太尉に任命して、二人に尚書の政務を主管させました(参録尚書事)
『孝安帝紀』の注によると、馮石の字は次初といい、荊州湖陽の人です。
 
元司空李郃を司徒にしました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
大将軍耿宝は位が尊く権勢も重く、威が前朝(安帝時代の朝廷)に行き渡っていました。そのため、閻顕が耿宝を嫌い、有司(官員)に示唆してこう上奏させました「耿宝およびその党と中常侍樊豊、虎賁中郎将謝惲、侍中周広、野王君(安帝の乳母)王聖、王聖の娘永等は共に徒党を組み、互いに威福を為しました(原文「更相阿党互作威福」。「威福」は賞罰を指します。皇帝の代わりに専横して賞罰を好き勝手に行ったという意味です)。皆、大不道です。」
 
資治通鑑』は謝惲を「虎賁中郎将」としていますが、『孝安帝紀』では「侍中」になっています。
後漢書皇后紀下』は耿宝の党人をこう書いています「中常侍樊豊、虎賁中郎将謝惲、謝惲の弟侍中謝篤、謝篤の弟大将軍長史謝宓、侍中周広、阿母の野王君王聖、王聖の娘永、永の婿黄門侍郎樊厳等」。『資治通鑑』は『皇后紀』に従っています。
 
本文に戻ります。
辛卯(初五日。上述の「四月丁酉(十一日)」の記述と順番が入れ替わっているようです)、樊豊、謝惲、周広が獄に下されて死にました。家属は比景に移されます。
耿宝と弟の子にあたる林慮侯耿承は亭侯に落とされました。それぞれ封国に派遣されましたが、耿宝は道中で自殺します。
王聖母子は雁門に移されました。
 
後漢書耿弇列伝(巻十九)』によると、耿弇の弟耿舒が牟平侯が封じられ、耿舒の死後、子の耿襲が跡を継ぎました。耿襲は顕宗明帝の娘隆慮公主を娶りました。
耿襲を継いだのが子の耿宝です。
また、耿宝の弟の子耿承が隆慮公主の封を継承して林慮侯になりました。「林慮」は「隆慮」と同じです。殤帝の諱(実名)劉隆を避けて「林」に改められました。
 
この後、閻景が衛尉に、閻耀が城門校尉に、閻晏が執金吾になり、兄弟が並んで権要に入って威福を自由にしました。
 
[] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
己酉(二十三日)、孝安皇帝を恭陵に埋葬しました。廟号は恭宗です。
『孝安帝紀』の注によると、恭陵は洛陽の東北二十七里に位置します。陵山の周囲は二百六十丈、高さは十五丈です。
 
[十一] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月(『資治通鑑』は「九月」としていますが誤りです)乙巳(二十日)、天下に大赦しました。
 
(太后)詔を発し、先帝が巡狩(巡行)した地は全て本年の田租を半数に減らしました。
 
[十二] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、西域長史班勇が敦煌、張掖、酒泉の六千騎と鄯善、疏勒、車師前部の兵を動員して後部王軍就を撃ち、大破しました。首虜八千余人を獲ます。
また、軍就と匈奴の持節使者匈奴単于の符節を持った使者)を生け捕りにし、索班が戦没した場所(安帝永寧元年120年)に連れて行って斬首しました。首は京師に届けられます。
 
[十三] 『後漢書孝安帝紀』からです。
丙午、東海王劉粛が死にました。
 
劉粛の諡号は頃王で、父は靖王劉政、劉政の父は恭王劉彊です。劉彊はかつて光武帝の太子でした。
後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、劉粛の死後、子の孝王劉臻が継ぎました。
 
 
 
次回に続きます。