東漢時代186 安帝(三十六) 政変 125年(2)

今回は東漢安帝延光四年の続きです。
 
[十四] 『後漢書孝安帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月丙午(二十二日)、越で山崩れがありました。
 
[十五] 『後漢書孝安帝紀後漢書孝順孝沖孝質帝紀と『資治通鑑』からです。
少帝北郷侯)劉懿が病を患い、病状が重くなりました。
中常侍孫程が済陰王謁者長興渠(『後漢書宦者列伝(巻七十八)』の注は「済陰王謁者長・興渠は、興が姓で渠が名」としていますが、『資治通鑑』胡三省注はこう解説しています「王国謁者は比四百石で、その下に礼楽長、衛士長、医工長、永巷長がいた。謁者長という官はない。よって長興が姓である」)に言いました「王は嫡統であり、本来、徳を失うようなこともなかったのに、先帝が讒を用いたので、廃黜(廃位)に至りました。もし北郷(劉懿)が起たないようなら(病が良くならないようなら)、共に江京、閻顕を断てば成功しないはずがありません(事無不成者)。」
長興渠はこの言葉に納得しました。
 
中黄門南陽の人王康はかつて太子府史を勤めていました。王康や長楽太官丞京兆の人王国等も孫程に附同(党を組んで共謀すること)します。
資治通鑑』胡三省注によると、太子府史は東宮(太子宮)の府藏を管理し、長楽太官丞は太后の食膳を管理します。
 
一方で江京が閻顕に言いました「北郷侯の病が治りません(原文「病不解」。『資治通鑑』胡三省注によると、病が体にまとわりついて解けないという意味です)。国嗣(後継者)をすぐに定めるべきです。何故早く諸王子を招いて、擁立する者を選ばないのですか(簡所置乎)。」
閻顕は納得しました。
 
辛亥(二十七日)、少帝北郷侯)が死にました。
車騎将軍閻顕および江京と中常侍劉安、陳達等が太后に報告し、皇帝の死を秘密にして喪を発表せず、改めて諸国の王子を招いて新帝を擁立しようとしました。宮門を閉ざし、兵を駐屯させて守りを固めます。
後漢書皇后紀下』によると、閻顕等は済北王と河間王の子を招こうとしました。当時の済北王は節王劉登で、恵王劉寿の子、章帝の孫です。河間王は孝王劉開で章帝の子です。
 
十一月乙卯(初二日)、孫程、王康、王国と中黄門黄龍、彭愷、孟叔、李建、王成、張賢、史汎、馬国、王道、李元、楊佗、陳予、趙封、李剛、魏猛、苗光等が西鍾(西の鐘楼)の下に集まって謀議し、皆、単衣を切って誓いを立てました(截単衣為誓)
 
丁巳(初四日)、京師と十六の郡国で地震がありました。
その夜、孫程等(『孝順孝沖孝質帝紀』は「中黄門孫程等十九人」としていますが、孫程は「中常寺」が正しいはずです)が崇徳殿上に集合してから章台門に入りました。
資治通鑑』胡三省注によると、崇徳殿は南宮にあります。
 
この時、江京、劉安および李閏、陳達等はそろって省門(禁門)の下に座っていました。
孫程と王康が共に江京、劉安、陳達を斬ります。
李閏は権勢を握って久しいため省内(禁中)の者が服していました。孫程等は李閏を誘って主(先頭に立って人々を引っ張る者)にしたいと思い、刃を挙げて李閏を脅迫しました「今は済陰王を立てるべきだ。搖動してはならない(済陰王の即位を動かしてはならない。原文「毋得搖動」)。」
李閏は「諾(分かりました)」と答えます。
そこで孫程等は李閏を抱え起こし、そろって徳陽殿(北宮)西鍾の下で済陰王劉保を迎えて皇帝の位に即けました。劉保はこの時わずか十一歳で、順帝といいます。
(順帝は)近臣や尚書令、僕射以下の官員を招いて南宮に行幸する輦(皇帝の車)に従わせました。孫程等は省門を守って内外を遮断します。
順帝は雲台に登って公卿、百僚を召しました。
 
尚書劉光等が上奏しました「孝安皇帝は聖徳が明茂(明盛)でしたが、早くに天下を棄てました。陛下は正統なので宗廟を奉じるべきでしたが、姦臣が交搆(交合)して陛下を藩国に龍潜(龍が沼に潜むように隠れること)させたため、群僚遠近(天下)で失望しない者はいませんでした。しかし天命には常(正常な規律)があるので、北郷(劉懿)は永くなく、漢徳が盛明になり、福祚(福利。福禄)が甚だ明らかになりました(福祚孔章)。近臣が建策し、左右が扶翼(補佐)し、内外が同心になり、神明を稽合(考察)したので、陛下が践祚(即位)して鴻緒(先祖の偉業)を奉遵(遵守)し、郊廟(天地や先祖を祭る祠廟)の主となり、祖宗の無窮の烈(業績)を承続(継承)し、上は天心に符合し、下は民望を満足させました(上当天心下猒民望)。しかし即位が倉卒(突然)だったので、典章の多くが欠けています。礼儀を條案(個別に整理検証)して、分けて上奏すること(分別具奏)を請います。」
順帝は制(皇帝の命令)を発して「可」と言いました。
 
安帝は公卿百僚を招いてから、虎賁、羽林の士を南北宮の諸門に駐屯させました。
 
閻顕はこの時、禁中にいましたが、憂迫(憂患焦慮)してどうするべきか分かりませんでした。
この部分は『資治通鑑』の記述で、胡三省注は「北宮にいたはずだ」としています。
『孝順孝沖孝質帝紀』は「閻顕兄弟は帝(順帝)が立ったと聞き、兵を率いて北宮に入った。尚書郭鎮が鋒刃を交え、閻顕の弟に当たる衛尉閻景を斬った」としていますが、閻顕は太后に少帝の死を報告したので、既に北宮に入っていたはずです。
後漢書宦者列伝(巻七十八)』は「閻顕はこの時、禁中にいた」と書いており、『資治通鑑』はこれに従っています。
 
本文に戻ります。
小黄門樊登が閻顕に進言しました。太后の詔によって越騎校尉馮詩と虎賁中郎将閻崇を招き、兵を率いて平朔門に駐屯させ、孫程等を防ぐように勧めます。
後漢書宦者列伝(巻七十八)』では、「平朔門」は「朔平門」です。
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『資治通鑑』は袁宏の『後漢紀』に従って「平朔門」としていますが、胡三省は「『百官志』を見ると朔平門が北宮北門なので、恐らく『宦者列伝』が正しい」と解説しています。
 
閻顕は馮詩を誘って入省(入宮)させ、こう言いました「済陰王が立つのは皇太后の意ではない。璽綬(『資治通鑑』胡三省注は「天子の璽綬」としています)はここにある。もし尽力して功を立てたら(苟人力效功)、封侯を得ることもできる。」
太后も使者を送って印を授け、こう言いました「済陰王を得ることができた者は万戸侯に封じ、李閏を得ることができた者は五千戸侯に封じる。」
馮詩等は許諾しましたが、「突然召されたので指揮する兵が少なすぎます(卒被召所将衆少)」と訴えました。
閻顕は馮詩に命じて樊登と共に左掖門外で吏士を迎えさせます。
しかし馮詩は機に乗じて樊登を格殺(撃殺)し、営に帰って屯守しました。
 
閻顕の弟に当たる衛尉閻景が急いで省中から外府(『資治通鑑』胡三省注は「衛尉府」としています)に還り、兵を集めて盛徳門に到りました。
孫程は詔を伝えて諸尚書を招き、閻景を逮捕させます。
尚書郭鎮は病のため寝ていましたが、詔を聞いてすぐに直宿(宿直)の羽林を統率し、南止車門を出ました。そこでちょうど吏士を従えた閻景に遭遇します。
(閻景が)白刃を抜いて「我が兵(兵器。武器)を侵すな(抵抗するな。原文「無干兵」)!」と叫びました。
郭鎮はすぐに車から下り、符節を持って詔を示します(持節詔之)
閻景は(順帝の詔を認めず)「何の詔だ(何等詔)!」と言って郭鎮に斬りかかりましたが、命中しませんでした。
逆に郭鎮が剣を抜いて閻景を撃ちます。閻景は車から転落し、左右の者が戟で閻景の胸を押さえつけて生け捕りにしました。
閻景は廷尉の獄に送られてその夜に死にました。
 
戊午(初五日)(順帝が)使者を送って入省(入宮)させ、璽綬を奪いました(北宮の閻太后から皇帝の璽綬を奪いました)
順帝は嘉徳殿に入ります。
資治通鑑』胡三省注によると、嘉徳殿は南宮にありました。
北宮は皇帝や皇后が生活する場所で、南宮は政治を行う場所です。順帝は元々、北宮徳陽殿西鍾の下に住んでおり、皇帝として迎えられてから南宮の雲台にいました。
 
順帝は嘉徳殿に登ってから侍御史を派遣し、符節を持って閻顕やその弟の城門校尉閻耀、執金吾閻晏を逮捕させました。全て獄に下されて誅殺されます。
家属は皆、比景に移され、閻太后離宮に遷されました。
 
己未(初六日)、宮門を開いて屯兵を解散させました。
 
 
 
次回に続きます。