東漢時代187 安帝(三十七) 功臣 125年(3)

今回で東漢安帝延光四年が終わります。
 
[十五(続き)] (十一月)壬戌(初九日)、順帝が司隸校尉に詔を発しました「閻顕、江京だけが近親として罪に伏して誅されるべきである(当伏辜誅)。その他は務めて寛貸(寛恕)を尊べ(其余務崇寛貸)。」
 
順帝は孫程等を全て列侯に封じました。孫程は食邑一万戸、王康と王国は食邑九千戸、黄龍は食邑五千戸、彭愷、孟叔、李建は食邑四千二百戸、王成、張賢、史汎、馬国、王道、李元、楊佗、陳予、趙封、李剛は食邑四千戸、魏猛は食邑二千戸、苗光は食邑千戸で、これを十九侯といいます。
以下、『後漢書宦者列伝』と『資治通鑑』胡三省注からです。
孫程を浮陽侯に、王康を華容侯に、王国を酈侯に、黄龍を湘南侯に、彭愷を西平昌侯に、孟叔(胡三省注では「孟宿」です)を中廬侯に、李建を復陽侯に、王成を広宗侯に、張賢を祝阿侯に、史汎を臨沮侯に、馬国を広平侯に、王道を范県侯に、李元を褒信侯に、楊佗を山都侯に、陳予を下雋侯(胡三省注では「下侯」です)、趙封を析県侯に、李剛を枝江侯に、魏猛を夷陵侯に、苗光を東阿侯に封じました。
 
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加えて車馬、金銀、銭帛をそれぞれ差をつけて下賜しました。
李閏は始めから計画に参加していたわけではないので、封侯されませんでした。
孫程を抜擢して騎都尉に任命しました。
 
孫程等が章台門に入った時、苗光だけは進入しませんでした。
ところが、順帝が詔書によって功臣を記録するように命じ、王康に功臣の名を一人ずつ報告させると、王康は偽って苗光も章台門に入ったと報告しました。
苗光は東阿侯の符策を受け取る前に不安になって自ら黄門令を訪ね、自白しました。『資治通鑑』胡三省注によると、黄門令は省中(宮中)の諸宦者を管理します。
有司(官員)が王康と苗光の皇帝を欺いた罪を上奏しましたが、順帝は詔書を発して不問にしました。
 
『宦者列伝』の注が少し詳しく書いています。
政変の当日、苗光は尚席直事(「尚席」は宴席を管理する官、「直事」は当直宿直です。「尚席直事」は恐らく宮内の食事を管理する当番です)として灯を点けに行きました。剣を解いて章台門の外に置き、灯を持って中に入ります。ちょうどこの時、孫程等が門内に入って来ました。苗光は走って門を出て剣を取りに行こうとします。王康が苗光を呼んで還らせようとしましたが、苗光は応えませんでした。
苗光は剣を得てから戻って門に入ろうとしましたが、門は既に閉じられていました。苗光は宜秋門を守ります。
そこに李閏が来て苗光を門外に出しました。
二人は共に済陰王を迎えに行って南宮雲台に入りました。
詔書によって功臣が記録され、王康に功臣の名を一人一人報告させた時、王康は苗光も章台門に入ったと偽りました。
苗光は王康にこう言いました「遅かれ早かれ問う者がおり、(嘘が)証明されるだろう(緩急有問者当相証也)。」
順帝が詔書を発して苗光を東阿侯に封じました。食邑は四千戸です。しかし苗光は符策を受け取る前に不安になり、黄門令を訪ねて自白しました。有司が王康と苗光の皇帝を欺いた罪を上奏します。
順帝は詔書を発して不問とし、東阿侯に封じて食邑を千戸にしました。
 
本文に戻ります。
将作大匠来歴を衛尉に任命しました。
祋諷、閭丘弘等(『後漢書李王鄧来列伝(巻十五)』では「祋諷、劉瑋、閭丘弘等」です)は先に死んでいたため、それぞれ子を郎に任命しました。
朱倀、施延、陳光、趙代も皆、抜擢されて後には公卿になります(安帝延光三年124年に劉保が皇太子を廃された時、来歴等は反対しました。その功績によって順帝に厚遇されました)
 
王男と邴吉の家属を招いて京師に還らせ(安帝延光三年124年参照)、厚い賞賜を加えました。
 
順帝が皇太子を廃された時、太子の家を監督する小黄門(監太子家小黄門)籍建、傅高梵、長秋長趙熹、丞良賀(良が姓です。『資治通鑑』胡三省注によると、鄭に良霄がいました。穆公の子子良の孫です)、薬長夏珍が皆、連座して朔方に遷されました。
順帝が即位してから、全て中常侍に抜擢されました。
資治通鑑』胡三省注によると、「傅」は「中傅」です。「長秋長」は恐らく「大長秋」で、丞が一人いました。秩は六百石です。中宮薬長は秩四百石です。全て皇后の宮官(属官。宦官)です。
 
以前、閻顕が崔駰(章帝元和元年84年および章帝章和二年88年参照)の子崔瑗を招聘して官吏にしました。崔瑗は北郷劉懿の即位が正統ではないため、閻顕の失敗を予知しました。しかし、皇帝廃立を説得しようとしても、閻顕は日々沈酔(泥酔)して会うことができません。
そこで崔瑗は長史陳禅にこう言いました「中常侍江京等が先帝を惑蠱(惑乱)し、正統を廃黜(廃除)して疏孽(庶孽。妾の子。支庶の子)を扶立(擁立)しましたが、少帝北郷侯)は即位するとすぐに廟中で発病しました。周勃の徵(兆し)がここに再び現れています西漢時代、呂后が少帝を立てましたが、周勃が廃しました)。今、君(あなた)と共に将軍(閻顕)への謁見を求めて説得することを欲します。(将軍が)太后に報告し、江京等を収め(捕え)、少帝を廃し、済陰王を迎えて立てれば、必ず上は天心に当たり、下は人望に合い、席を下りずに伊(伊尹霍光)の功を立てられ、そうなれば将軍兄弟が無窮に祚(福)を伝えられます。もしも天意を拒違(拒否)して久しく神器(帝位)を荒廃させたら(久曠神器)、無罪も元悪(大悪)と并辜(同罪)とされます(将軍が罪を犯さなくても大罪とされます)。これは禍福の会(禍を得るか福を得るかを決める機会)、分功の時というものです。」
 
陳禅は躊躇して進言に従うことができませんでした。
やがて閻顕が敗れると崔瑗も連座して罷免されました。
崔瑗の門生蘇祗が上書して陳禅に進言したことを訴えようとしましたが、崔瑗は急いで止めました。
この時、司隸校尉になっていた陳禅が崔瑗を招いて言いました「蘇祗の上書を許可さえすれば、禅(私)が証人になることを請おう(私が証人になろう。原文「弟聴祗上書,禅請為之証」。『資治通鑑』胡三省注によると、「弟」は「但(ただ)」の意味です)。」
しかし崔瑗はこう言いました「これは児妾の屛語(子供や女の私語)のようなものです。使君(皇帝が派遣した地方の長官。ここでは司隸校尉陳禅を指します)が再び口にしないことを願います(願使君勿復出口)。」
崔瑗は別れを告げて帰郷し、二度と州郡の命に応じませんでした。
 
[十六] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
壬申(十九日)、順帝が高廟を拝謁しました。
癸酉(二十日)、光武廟を拝謁しました。
 
[十七] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀からです。
乙亥(二十二日)、順帝が益州刺史に詔を発し、子午道を廃して襃斜路を通しました。
子午道は西漢平帝時代に王莽が通しました(平帝元始五年5年参照)
『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、「襃斜」は漢中の谷の名で、南谷を「襃」、北谷を「斜」といい、長さは七百里ありました。
 
[十八] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀と『資治通鑑』からです。
己卯(二十六日)、諸王の礼で北郷侯を埋葬しました。
 
[十九] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀と『資治通鑑』からです。
司空劉授が悪逆に阿附して相応しくない人材を招聘した罪(安帝延光二年123年参照)によって策免されました。
 
公卿以下の官員に差をつけて銭穀を下賜しました。
 
十二月甲申(初一日)、少府河南の人陶敦を司空に任命しました。
『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、陶敦の字は文理といい、京県の人です。
 
[二十] 『資治通鑑』からです。
楊震の門生虞放、陳翼が宮闕を訪ねて楊震の事を追訟しました(冤罪を訴えました。安帝延光三年124年参照)
詔によって楊震の二子が郎になり、銭百万が贈られました。また、礼を用いて楊震を華陰潼亭に改葬しました。遠近の人々が集まります。
この時、高さが一丈余もある大鳥が楊震の喪前(霊柩の前)に止まったため、郡が順帝に報告しました(『後漢書楊震列伝(巻五十四)』によると、大鳥は改葬する十余日前に喪前に止まり、埋葬後に飛び去りました)
順帝は楊震の忠に感じ入り、詔を発して改めて中牢の具(中牢の形式。「中牢」は「少牢」と同じで、羊と豚を犠牲に使う祭祀の規格です)で祭祀を行いました。
 
[二十一] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀からです。
郡国に令を下し、守・相で視事(政務を行うこと)が一年に満たない者も全て孝廉の吏に推挙できることにしました。
『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、漢法では視事が一年を満たしていなければ推挙されないことになっていましたが、新帝が即位したため、恩恵を施すために一年に満たなくても推挙できるようにしました。
 
[二十二] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀からです。
癸卯(二十日)尚書が上奏して、皇太子(劉保)を済陰王に遷した詔書(延光三年124年)九月丁酉(初七日)詔書を有司(官員)に回収させるように請いました。
順帝はこれに同意しました(奏可)
 
[二十三] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀からです。
辛亥(二十八日)、順帝が公卿、郡守、国相に詔を発し、賢良方正で直言極諫ができる士をそれぞれ各一人推挙させました。
 
[二十四] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀からです。
尚書令以下、輦に従って南宮に入った者全てに対して、秩を増やしてそれぞれ差をつけて布を下賜しました。
 
[二十五] 『後漢書孝安帝紀と『後漢書孝順孝沖孝質帝紀からです。
この冬(『孝安帝紀』では「この冬(是冬)」ですが、『孝順孝沖孝質帝紀』は十二月に書いています)、京師が大疫に襲われました。



次回に続きます。

東漢時代188 順帝(一) 大赦 126年(1)