東漢時代188 順帝(一) 大赦 126年(1)

今回から東漢順帝の時代です。
 
孝順皇帝
劉保といいます。安帝の子で、実母は李氏です。李氏は閻皇后に害されました。
安帝永寧元年120年)に皇太子に立てられましたが、延光三年124年)、安帝の乳母王聖や大長秋江京、中常侍樊豊等の讒言によって廃され、済陰王に遷されました。
翌年(延光四年125年)三月、安帝が死に、北郷劉懿が即位しました。
しかし十月辛亥(二十七日)に少帝北郷侯・劉懿)が死んだため、十一月丁巳(初四日)、中黄門孫程等十九人が劉保を擁立しました。これが順帝です。
戊午(初五日)、順帝が閻太后から皇帝の璽綬を奪って嘉徳殿に入りました。
以上、詳細は前年に書いたので、再述は避けます。
 
 
まずは東漢順帝永建元年です。三回に分けます。
 
東漢順帝永建元年
丙寅 126
 
[] 『資治通鑑』からです。
議郎陳禅は「閻太后と帝には母子の恩がないので、別館に遷して朝見を絶つべきだ」と考えました。
議論に参加した群臣は皆この意見に賛成します。
しかし司徒掾汝南の人周挙が司徒李郃にこう言いました「昔、瞽瞍(舜の父)が常に舜を殺そうと欲しましたが、舜はこれにつかえてますます謹しみました(ますます孝順恭敬な態度で父につかえました)。また、鄭武姜が荘公(武姜の子)を殺そうと謀ったため、荘公は黄泉の誓いを立て(黄泉に行かなければ母に会わないと誓い)、秦始皇は母の失行(不貞)を怨んだため、久しく隔絶しましたが、後に潁考叔と茅蕉の言に感動し、再び子道を修めたので、書伝(典籍)がこれを美としました。今、諸閻(閻氏)が誅殺されたばかりで、太后離宮に幽(幽閉)されています。もし悲愁が疾(病)を生んで一旦にして不虞(不測の事態)を招いたら、主上(陛下)は何をもって天下に号令するのでしょうか主上将何以令於天下)。もし陳禅の議に従ったら、後世は咎を明公(李郃)に帰します。朝廷(皇帝)に密表(密奏)して太后を奉じ、群臣を率いて以前のように朝覲させることで、天心を厭して(満足させて)人望(人々の希望)に答えるべきです。」
李郃はこの内容を上書陳述しました。
 
春正月、順帝が東宮で閻太后を朝見しました。
太后はやっと安心しました太后意乃安)
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と資治通鑑』からです。
甲寅(初二日)、順帝が詔を発しました「先帝は聖徳があったが、享祚(在位)が永くなく、早くに鴻烈(大業)を棄てた。奸悪な者がその隙を利用し(姦慝緣閒)、人々が怨恨誹謗したため(人庶怨讟)、上は和気を侵して疫癘(疫病)が災を為した。朕は大業を奉承(継承)したが、まだ寧済(安寧匡済。世を正して安定させること)ができていない。至理(治国)の本とは、徳恵を拡げることを考え(稽弘徳惠)、宿悪を洗浄して(蕩滌宿悪)、民と共に改めて始めることにある(與人更始)。よって天下に大赦する。男子に一人当たり爵二級を下賜し、父の後を継ぐ者、三老・孝悌・力田には三級を、流民で自ら名乗り出て戸籍を欲する者(流民欲自占者)には一級を下賜する。鰥寡(配偶者を失った男女)・孤独(孤児と身寄りがない老人)・篤𤸇(病が重い者)、貧しくて自存できない者には一人あたりに五斛の粟を、貞婦には一人当たり三匹の帛を与える。法に坐して流刑に処すべき者も移す必要はない(坐法当徙勿徙)。逃亡して伝えるべき者(指名手配すべき者)も伝える必要はない(亡徒当伝勿伝)。逃亡した徒囚で伝捕すべき者(指名手配して逮捕すべき者)も赦して捕まえる必要はない(徒囚逃亡当伝捕者放之勿捕)。宗室で罪によって(関係を)絶たれた者も皆、属籍を恢復する。閻顕、江京等と交通(交流)した者も全て追及しない(悉勿考)。勉めてその職を修めることで、我が民を安寧にさせよ(勉修厥職以康我民)。」
こうして大赦が行われました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
辛未(十九日)、皇太后閻氏が死にました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
辛巳(二十九日)、太傅馮石、太尉劉熹が権貴に阿党(迎合して党を組むこと)したとして罷免されました。
司徒李郃も罷免されました。
 
後漢書孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、馮石の字は次初といいます。
馮石と劉熹は権貴に阿党したことが原因で、李郃は多くの人が疾疫を患ったことが原因で罷免されました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
二月甲申(初二日)、安思皇后(閻太后を埋葬しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
丙戌(初四日)、太常桓焉を太傅に、大鴻臚朱寵を太尉に任命して二人に尚書の政務を主管させました(参録尚書事)
長楽少府朱倀を司徒にしました。
後漢書孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、朱寵の字は仲威で、京兆杜陵の人です。朱倀の字は孫卿で、寿春の人です。
 
百官、隨輦(皇帝の輦に従う者)宿衛および(官職を)拝受した者(原文「拝除者」。官職はあるものの、まだ正官になっていない者を指すと思われます)にそれぞれ差をつけて布を下賜しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
尚書郭鎮を定潁侯に封じました。閻景を捕えた功による封侯です。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
隴西の鍾羌が反しましたが、護羌校尉馬賢がこれを討って臨洮で戦い、千余級を斬首しました。
羌衆が全て降り、涼州が再び安定しました。
後漢書西羌伝(巻八十七)』によると、馬賢は安亭侯(安帝建光元年121年参照)から都郷侯に進められました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
夏五月丁丑、順帝が幽涼州の刺史に詔を発し、それぞれ二千石以下から黄綬に及ぶ官員(『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、二千石は太守、黄綬は県の丞尉です)の実情を調査させ、老齢で体が弱く(年老劣弱)、軍事を任せられない者の名を報告させました。
また、辺塞の守りを堅めて屯兵の設備を修繕し(障塞繕設屯備)立秋の後に軍事訓練(簡習戎馬)を行うように厳しく勅令しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と資治通鑑』からです。
六月己亥(十九日)、済南簡王劉錯の子劉顕を済南王に封じました。
 
前年、済南孝王劉香が死に、子がいなかったため国が廃されました。劉香は簡王劉錯の子、安王劉康の孫で、劉康は光武帝の子です。
今回、劉錯の子劉顕(孝王劉香の兄弟)が封侯されて祭祀を継ぐことになりました。
 
[十一] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と資治通鑑』からです。
秋七月庚午(二十一日)、衛尉来歴を車騎将軍に任命しました。
 
[十二] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と資治通鑑』からです。
八月、鮮卑が代郡を侵し、代郡太守李超が戦没しました。
 
 
 
次回に続きます。