東漢時代188 順帝(一) 大赦 126年(1)
今回から東漢順帝の時代です。
孝順皇帝
劉保といいます。安帝の子で、実母は李氏です。李氏は閻皇后に害されました。
以上、詳細は前年に書いたので、再述は避けます。
まずは東漢順帝永建元年です。三回に分けます。
東漢順帝永建元年
丙寅 126年
議論に参加した群臣は皆この意見に賛成します。
しかし司徒掾・汝南の人・周挙が司徒・李郃にこう言いました「昔、瞽瞍(舜の父)が常に舜を殺そうと欲しましたが、舜はこれにつかえてますます謹しみました(ますます孝順恭敬な態度で父につかえました)。また、鄭武姜が荘公(武姜の子)を殺そうと謀ったため、荘公は黄泉の誓いを立て(黄泉に行かなければ母に会わないと誓い)、秦始皇は母の失行(不貞)を怨んだため、久しく隔絶しましたが、後に潁考叔と茅蕉の言に感動し、再び子道を修めたので、書伝(典籍)がこれを美としました。今、諸閻(閻氏)が誅殺されたばかりで、太后は離宮に幽(幽閉)されています。もし悲愁が疾(病)を生んで一旦にして不虞(不測の事態)を招いたら、主上(陛下)は何をもって天下に号令するのでしょうか(主上将何以令於天下)。もし陳禅の議に従ったら、後世は咎を明公(李郃)に帰します。朝廷(皇帝)に密表(密奏)して太后を奉じ、群臣を率いて以前のように朝覲させることで、天心を厭して(満足させて)人望(人々の希望)に答えるべきです。」
李郃はこの内容を上書陳述しました。
甲寅(初二日)、順帝が詔を発しました「先帝は聖徳があったが、享祚(在位)が永くなく、早くに鴻烈(大業)を棄てた。奸悪な者がその隙を利用し(姦慝緣閒)、人々が怨恨誹謗したため(人庶怨讟)、上は和気を侵して疫癘(疫病)が災を為した。朕は大業を奉承(継承)したが、まだ寧済(安寧匡済。世を正して安定させること)ができていない。至理(治国)の本とは、徳恵を拡げることを考え(稽弘徳惠)、宿悪を洗浄して(蕩滌宿悪)、民と共に改めて始めることにある(與人更始)。よって天下に大赦する。男子に一人当たり爵二級を下賜し、父の後を継ぐ者、三老・孝悌・力田には三級を、流民で自ら名乗り出て戸籍を欲する者(流民欲自占者)には一級を下賜する。鰥寡(配偶者を失った男女)・孤独(孤児と身寄りがない老人)・篤𤸇(病が重い者)、貧しくて自存できない者には一人あたりに五斛の粟を、貞婦には一人当たり三匹の帛を与える。法に坐して流刑に処すべき者も移す必要はない(坐法当徙勿徙)。逃亡して伝えるべき者(指名手配すべき者)も伝える必要はない(亡徒当伝勿伝)。逃亡した徒囚で伝捕すべき者(指名手配して逮捕すべき者)も赦して捕まえる必要はない(徒囚逃亡当伝捕者放之勿捕)。宗室で罪によって(関係を)絶たれた者も皆、属籍を恢復する。閻顕、江京等と交通(交流)した者も全て追及しない(悉勿考)。勉めてその職を修めることで、我が民を安寧にさせよ(勉修厥職以康我民)。」
こうして大赦が行われました。
辛巳(二十九日)、太傅・馮石、太尉・劉熹が権貴に阿党(迎合して党を組むこと)したとして罷免されました。
司徒・李郃も罷免されました。
馮石と劉熹は権貴に阿党したことが原因で、李郃は多くの人が疾疫を患ったことが原因で罷免されました。
長楽少府・朱倀を司徒にしました。
百官、隨輦(皇帝の輦に従う者)、宿衛および(官職を)拝受した者(原文「拝除者」。官職はあるものの、まだ正官になっていない者を指すと思われます)にそれぞれ差をつけて布を下賜しました。
隴西の鍾羌が反しましたが、護羌校尉・馬賢がこれを討って臨洮で戦い、千余級を斬首しました。
羌衆が全て降り、涼州が再び安定しました。
夏五月丁丑、順帝が幽・并・涼州の刺史に詔を発し、それぞれ二千石以下から黄綬に及ぶ官員(『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、二千石は太守、黄綬は県の丞・尉です)の実情を調査させ、老齢で体が弱く(年老劣弱)、軍事を任せられない者の名を報告させました。
六月己亥(十九日)、済南簡王・劉錯の子・劉顕を済南王に封じました。
今回、劉錯の子・劉顕(孝王・劉香の兄弟)が封侯されて祭祀を継ぐことになりました。
秋七月庚午(二十一日)、衛尉・来歴を車騎将軍に任命しました。
次回に続きます。