東漢時代190 順帝(三) 孫程 126年(3)

今回で東漢順帝永建元年が終わります。
 
[十四] 『資治通鑑』からです。
浮陽侯孫程等が奏表を懐にして上殿し、功を争いました。
順帝がこれに怒ったため、有司(官員)が弾劾の上奏を行いました「孫程等は干乱悖逆(「干乱」は「干渉攪乱」、「悖逆」は「叛逆。正道に背くこと」です)しています。また、王国等は皆、孫程と党を結び、久しく京都に留まって驕恣(驕慢放縦)を増長させています(益其驕恣)。」
順帝は孫程等十九侯の官を免じ、全て遠県に改封しました。十九侯に京師から出て封国に赴くように命じ、同時に雒陽令に勅令を下して、期限を定めて早く出て行くように催促させます(促期発遣)
 
司徒掾周挙が司徒朱倀に言いました「朝廷(皇帝)が西鍾の下にいた時、孫程がいなかったらどうして即位できたでしょう(非孫程豈立)。今、その大徳を忘れて小過を録しましたが(記録しましたが。こだわっていますが)、もし道路で夭折したら(道中で命を落としたら)、帝に功臣を殺した譏(批判)が生まれてしまいます。今はまだ去っていないので、急いでこれを上奏するべきです(宜急表之)。」
朱倀が言いました「今は詔指(詔旨。皇帝の意旨。ここでは「皇帝」を指します)が怒っているので、わしが独りでこれを上奏したら必ず罪譴(譴責)を招くことになる(吾独表此必致罪譴)。」
周挙が言いました「明公は年が八十を越え、位が台輔(三公)になりながら、この時に竭忠報国(忠を尽くして国に報いること)しようとせず、身を惜しんで寵に安んじています。何を求めようと欲しているのですか?たとえ禄位を全うできても、必ず佞邪の議に陥ります(必ず佞邪として非難されることになります)。諫めて罪を獲てもまだ忠貞の名があります。もし挙(私)の言が採るに足らないのなら、ここに辞職を請います(請従此辞)。」
朱倀は納得して上奏を行いました。
順帝は諫言に従い、孫程を宜城侯に改封しました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、袁宏の『後漢紀』はこう書いています「秋七月、有司(官員)が上奏した『浮陽侯孫程、祝阿侯張賢は司隸校尉虞詡のために左右(皇帝の近臣)を訶叱(叱責)し、大臣を謗訕(誹謗)して妄りに不祥を造り、干乱悖逆しました。王国等は皆、孫程と党を結び、久しく京都に留まって驕恣を増長させています。』順帝は詔を発して孫程等を罷免し、都梁侯に遷した。怨恨した孫程は印綬に封をして返却した。(順帝は)改めて宜城侯に封じた。」
後漢書宦者列伝(巻七十八)』にも「孫程と張賢、孟叔、馬国等が司隸校尉虞詡のために冤罪を訴え、奏表を懐にして上殿し、左右を呵叱(叱責)した。帝が怒って孫程の官を免じた」とあります。
しかし『後漢書虞傅蓋臧列伝(巻五十八)』では孫程の諫言が順帝を動かして虞詡を再び任用させています(前回参照)
胡三省注は(元は『資治通鑑考異』)は「孫程の言が用いられてるので、順帝はこれ(孫程が虞詡のために順帝の左右の者を叱責して諫言を行ったこと)に怒ったのではない」と解説しています。
後漢書左周黄列伝(巻六十一)』は「当時、孫程等が奏表を懐にして上殿し、功を争ったため罪に坐した」と書いており、『資治通鑑』はこれに従っています。
 
本文に戻ります。
封国(宜城)に着いた孫程は怨恨恚懟(「恚懟」は「怨恨」「憤懣」の意味です)しました。
そこで印綬と符策に封をして朝廷に返却してから、京師に逃げ帰り、山中を往来しました。
順帝は詔書を発して孫程を追い求め、元の爵土に戻して車馬、衣物を下賜し、封国に送り帰しました。
 
「元の爵土に戻した(復故爵土)」というのは「浮陽侯」に戻したのではなく、改めて「宜城侯」に封じて返却された印綬と符策を与えたという意味です。
後漢書宦者列伝』によると、孫程は死ぬ前に封国(宜城国)を弟の孫美に継承させることを求めました。順帝はこれを許可しましたが、宜城国を半分に分けて孫程の養子孫寿を改めて浮陽侯に封じました。孫程は剛侯という諡号が贈られました。
後に順帝は詔を発して全ての宦官の養子が後継者として封爵を継ぐことを許します(順帝陽嘉四年135年に再述します)
 
[十五] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
九月辛亥、始めて三公と尚書に入宮して国事を上奏させました(初令三公尚書入奏事)
 
[十六] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
冬十月辛巳(初三日)、順帝が詔を発し、死罪以下の刑を減らして辺境に移しました。また、亡命(逃亡)した者にはそれぞれ差をつけて贖罪させました。
 
[十七] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
丁亥(初九日)、司空陶敦を罷免しました。
 
[十八] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
朔方以西では障塞の多くが破損していたため、鮮卑がしばしば漢の辺境や南匈奴を侵していました。
憂恐した単于は上書して障塞の修復を乞いました。
 
庚寅(十二日)、順帝が詔を発し、黎陽の営兵を出して中山北界に駐屯させました(黎陽は魏郡に属します。今回、黎陽営の兵を北上させて中山北界に置きました)
また、幽州刺史に指示を出し、縁辺の郡に歩兵を増置して塞下に列屯(営を並べて駐屯すること)させ、五営(長水、歩兵、射声、胡騎、車騎の五校尉)の弩師を選び、郡から五人を推挙して戦射を教習させました(原文「調五営弩師,郡挙五人,令教習戦射」。五営から選ばれた弩師と郡が推挙した五人が兵に射術を教えたのだと思います)
 
[十九] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
壬寅(二十四日)、廷尉張皓を司空に任命しました。
 
[二] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
甲辰(二十六日)、順帝が詔を発しました。疫癘(疫病)水潦(大雨、洪水)に襲われたため、民の本年の田租を半数にし(令人半輸今年田租)、損害を被って十分の四以上におよぶ者は收責(回収。徴収)せず、十分の四に満たない者も実情に応じて免除することにしました(以実除之)
 
[二十一] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
十二月辛巳、王(公主)、貴人、公卿以下の者にそれぞれ差をつけて布を下賜しました。
 
[二十二] 『資治通鑑』からです。
班勇が車師後部の旧王の子加特奴を改めて王に立てました。
 
後漢書西域伝(巻八十八)』によると、加特奴は農奇(和帝永元九年97年参照)の子です。
和帝時代に車師後王涿鞮が叛したため、東漢が討伐して涿鞮を斬り、涿鞮の弟農奇を王に立てました。
農奇の後、王位に即いたのは軍就です。軍就は安帝永寧元年120年)に叛しましたが、安帝延光四年125年。前年)、班勇に斬られました。今回、班勇が改めて農奇の子加特奴を王に立てました。
 
本文に戻ります。
班勇が別校を送って東且彌王を誅斬し、種人(同族の者)を王に立てました。
資治通鑑』胡三省注によると、東且彌国は洛陽から九千二百里離れています。
 
こうして車師六国が全て平定されました。
後漢書西域伝(巻八十八)』によると、「車師六国」は車師前後部、東且彌、卑陸、蒲類、移支を指し、北辺が匈奴と接していました。車師前部の西は焉耆北道に通じ、車師後部の西は烏孫に通じます。
 
六国を平定した班勇は諸国の兵を徴発して匈奴を撃ちました。
呼衍王が逃走し、その衆二万余人が全て投降します。
更に北単于(誰かはわかりません)の従兄が生け捕りにされました。
班勇は加特奴の手でこれを斬首させ、車師と匈奴に間隙を生ませました。
 
一方の北単于は自ら一万余騎を率いて車師後部に入り、金且谷に到りました。
班勇は假司馬曹俊を送って車師後部を助けさせます。
単于は撤退しましたが、曹俊が追撃して貴人骨都侯を斬りました。
呼衍王は枯梧河上に移って住むようになり、この後、車師には虜跡匈奴の姿)が無くなりました。
 
 
 
次回に続きます。