東漢時代191 順帝(四) 班勇失脚 127年(1)
今回は東漢順帝永建二年です。二回に分けます。
東漢順帝永建二年
丁卯 127年
春正月戊申、楽安王・劉鴻が来朝しました。
劉鴻は楽安夷王・劉寵の子で、劉寵は千乗貞王・劉伉の子、章帝の孫です(安帝建光元年・121年参照)。
丁卯、常山王・劉章が死にました。
二月、遼東の鮮卑が遼東と玄菟を侵しました。
『後漢書・烏桓鮮卑列伝(巻九十)』にはこうあります「遼東の鮮卑六千余騎も遼東、玄菟を侵した。烏桓校尉・耿曄が縁辺諸郡の兵と烏桓を徴発し、衆王を率いて塞から出撃した。数百級を斬首し、生口・牛馬・什物(器物)を大いに獲た。鮮卑は種衆三万人を率いて遼東を訪ね、投降を乞うた。」
甲辰、順帝が詔を発し、荊・豫・兗・冀四州の流散した貧人に稟貸(倉庫を開いて食糧を貸し与えること)して、所在地の官府に職業を安定させました(所在安業之)。また、疾病の者には医薬を与えました。
三月、旱害がありました。
朝廷が使者を派遣して囚徒の状況を記録しました(原文「遣使者録囚徒」。冤罪の有無を確認したのだと思われます。もしくは、翌年に「使者を派遣して囚徒を記録し、刑犯罪者を整理した(遣使者録囚徒理軽繋)」という記述があるので、本年も刑犯罪者の状況を調べたのかもしれません)。
疏勒国が使者を送って奉献しました。
以前、順帝の母・李氏は雒陽北に埋葬されましたが、順帝はこの事を知りませんでした(順帝の実母・李氏は閻后に毒殺されました。安帝元初二年・115年参照)。
本年、左右の者が李氏の事を順帝に報告したため、順帝は発哀(哀悼)して自ら埋葬された場所に行き、礼を用いて棺を改めました(更以礼殯)。
西域城郭諸国(城郭を建てて定住している国)が全て漢に服しましたが、焉耆王・元孟だけは投降しませんでした。
班勇は焉耆攻撃を請う上奏を行いました。
班勇は西域諸国の兵四万余人を動員し、二道に分かれて焉耆を撃ちました。班勇が南道から、張朗が北道から進み、日時を約束して共に焉耆に至ることにします。
しかし張朗はこれ以前に罪が有ったため、功績を立てて贖罪しようと欲しました。そこで約束より早く爵離関(『資治通鑑』胡三省注によると、亀茲国北四十里の山上に寺があり、「雀離大清浄」といいました。「爵」と「雀」は同じです)に到着し、司馬に兵を率いて進攻させました。東漢軍が首虜二千余人を獲ます。
元孟は誅殺を懼れたため、使者を送って投降を乞いました。
張朗は直接焉耆に入って投降を受け入れ、兵を還します。
張朗は誅殺を免れ、逆に班勇が期日に遅れた罪で朝廷に招かれ、下獄、免官されました。
『資治通鑑』胡三省注はこう書いています「張朗は功を求めて期日より先行したので、法において必ず誅殺されるべきである。一方の班勇は期日に遅れてはいない。漢の用刑は内実を詳しく調べなかった(不審厥衷)。班勇が免官されてから、西域の事は去ってしまった(西域事去矣)。」
尚、『後漢書・西域伝』には「延光年間(安帝時代)、班超の子・班勇が西域長史になり、再び諸国を討伐して平定したが、元孟と尉黎、危須だけは降らなかった。永建二年(本年)、班勇と敦煌太守・張朗がこれを撃破したため、元孟は子を送って宮闕を訪ねさせ、貢物を献上した」とあり、『孝順孝沖孝質帝紀』も「西域長史・班勇と敦煌太守・張朗が焉耆、尉犂、危須の三国を討って破った。(三国が)そろって子を派遣して貢献した」と書いています。焉耆の元孟以外にも尉黎と危須が東漢に帰順していなかったようです。また、どちらも「班勇と張朗が破った」と書いていますが、実際は「張朗」の功績です。
秋七月甲戌朔、日食がありました。
壬午(初九日)、太尉・朱寵と司徒・朱倀を罷免しました。
しかし劉矩は東漢桓帝時代の太尉です。『後漢書・循吏列伝(巻七十六)』には「劉矩は字を叔方といい、沛国蕭の人である。叔父の劉光は順帝時代に司徒(「太尉」の誤りです)になった」と書かれているので、「劉光は劉矩の弟」とするのは誤りです。
許敬は和帝・安帝の時代から官に就いていました。ちょうど竇氏、鄧氏、閻氏の権勢が盛んな時でしたが、屈橈(屈服)しなかったため、三家が破れて士大夫の多くに汚点があっても(士大夫多染汚者)、許敬だけは謗言(批難)が及ばず、当世の人々はこれを貴としました(尊敬しました)。
辛丑、下邳王・劉成(貞王)が死にました。
次回に続きます。