東漢時代192 順帝(五) 樊英 黄瓊 李固 127年(2)

今回は東漢順帝永建二年の続きです。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
南陽の人樊英は若い頃から学行(学問と品行)があり、名が海内で知られていましたが、壺山の陽(南)で隠居していました。
州郡が前後して礼請(礼を用いて招聘すること)しても応じず、公卿が賢良方正有道として推挙しても出仕しようとしません。安帝が策書を下賜して招いてもやはり赴きませんでした。
この年、順帝がまた策書と玄纁(黒と赤の布。聘問で使う礼物です)によって、礼を備えて樊英を召しました。しかし樊英は病が篤いと称して固辞します。
 
順帝が詔を発して郡県を厳しく譴責したため、郡県は樊英を車に載せて上京させようとしました(駕載上道)
樊英はやむなく京師に入りましたが、病と称して起ちあがろうとせず、(官員が)無理やり輿(車。または人を運ぶ台)に載せて入殿させても、やはり仕官に応じませんでした。
順帝は樊英を退出させ、太医(『資治通鑑』胡三省注によると、太医令は少府に属し、その下に薬丞と方丞がいます)に就いて養生させました。毎月、羊と酒を贈ることにします(月致羊酒)
その後、順帝は樊英のために壇を造り、公車令に先頭を進ませ、尚書に奉引(車を牽くこと。または車を先導、案内すること)させました(令公車令導,尚書奉引)。几杖(肘置きや杖)を下賜して師傅の礼で待遇し、政治の得失について質問してから五官中郎将に任命します。
後漢書方術列伝上(巻八十二上』はこれを「永建四年三月」の事としています。しかし『後漢書左周黄列伝(巻六十一)』を見ると、永建三年の大旱よりも前に李固が黄瓊に送った書で「樊君(樊英)が招かれて始めて(朝廷に)至った時、朝廷は壇席を設けた」と言っています(下述します)。よって『資治通鑑』は樊英の事を本年(永建二年)に書いています(胡三省注参照)
 
数カ月後、樊英がまた病が篤いと称しました。
順帝は詔によって光禄大夫に任命し、告帰(官員が家や故郷に帰って休養すること)を下賜しました。また、所在地に命じて穀物を贈らせ、歳時(年ごと)に牛と酒を届けさせました。
樊英は官位を辞退して受け入れようとしませんでしたが、順帝は詔書によって意旨を諭し、辞職に同意しませんでした。
 
樊英が詔命を受けたばかりの時、人々は樊英が志を下げることはないと考えました(志を下げて仕官に応じることはないと考えました。原文「衆皆以為必不降志」)
南郡の王逸はかねてから樊英と親しかったため、多くの故事を引用して譬えとし、樊英に招聘を勧める書を送りました。
その結果、樊英は王逸の意見に従って京師に入りました。
しかし後に樊英が皇帝の問いに答えた時、奇謀深策がなかったため、談者(樊英について議論していた者)を失望させました。
 
河南の人張楷も樊英と共に招聘に応じました。
張楷が樊英に言いました「天下には二道があります。出(出仕)と処(隠居)です。私は以前、子(あなた)の出(出仕)によって、この君を輔佐し、この民を救済できると思っていました。しかし子(あなた)は、始めは不訾の身(量ることができない体。貴重な体)によって万乗の主を怒らせ(『後漢書方術列伝上』によると、順帝が無理やり樊英を輿に乗せて入殿させても樊英が仕官に応じなかったため、順帝は激怒しましたが、名声を敬って養生させました)、爵禄を享受するようになってからも、匡救(矯正救済)の術が聞こえてきません。これでは進退に根拠がありません(「出」にも「処」にも当てはまりません)。」
 
[十四] 『資治通鑑』からです。
広漢の人楊厚、江夏の人黄瓊も招聘されました。
黄瓊は黄香(和帝時代の尚書令です。和帝永元六年94年参照)の子です。
 
楊厚は朝廷に入ってから、「漢は三百五十年の戹(厄)がある」と予言して順帝を戒め、議郎に任命されました。
資治通鑑』胡三省注によると、『春秋命歴序』に「四百年の間で(四百年の時間が経ったら)、四門を閉め、外難を聴き、群異(諸異民族?)が並んで賊になり、官には孽臣がおり、州には兵乱がある。五七の弱(衰弱)と暴漸(暴虐崩壊が進むこと)の效(結果)である(四百年之間,閉四門,聴外難,羣異並賊,官有孽臣,州有兵乱,五七弱暴漸之效也)」と書かれており、その注釈に「五七は三百五十歳(年)で、順帝の漸微(徐々に衰弱すること)に当たり、四方の逆賊が多くなる(五七三百五十歳,当順帝漸微四方多逆賊也)」とあります。
 
黄瓊が京師に入ろうとした時、李固が黄瓊を迎え入れる書を送りました「君子は伯夷を隘(度量が小さいこと)、柳下恵を不恭(恭敬ではないこと。傲慢なこと)と言っています。伯夷にも柳下恵にもならず(不夷不恵)、可否(両者)の間になるのは、聖賢が身を置く時に珍重したことです(重視したことです。原文「聖賢居身之所珍也」)。誠に枕山棲谷(山を枕にして谷を住居にすること。隠居)を欲し、巣(巣父と許由。帝堯時代の隠者)の跡に倣うのならそれも善いでしょう(擬迹巣由斯則可矣)。しかしもし政事を輔佐して民を救済しよう(輔政済民)というのなら、今がその時です。生民以来(民が生まれてから)、善政は少なく乱俗(腐敗した風俗)が多いので、必ず堯舜のような君を待っていたら、士がその志を行う時はいつまで経っても来ません(必待堯舜之君,此為士行其志終無時矣)
かつてこのような言葉を聞いたことがあります『高すぎる山は崩れやすく、純白な玉は汚れやすい(嶢嶢者易缺,皦皦者易汙)。』盛んな名声の下では、実情が合うのは難しいものです(名声が盛んになりすぎると、噂と実態が一致しにくくなるものです。原文「盛名之下其実難副」)。最近、魯陽南陽郡に属します)の人樊君(樊英)が招かれて至ったばかりの時、朝廷は壇席を設けて神明を待遇するかのようでした。彼には大異(奇謀。人と異なること)がありませんが、言行が慎重なので欠点もありません(言行所守亦無所缺)。しかし毀謗(誹謗。批難)が布流(流布)して、すぐに(名声が)折減(減損。失墜)したのは(応時折減者)、観聴(世論)の望みが深く、名声が盛んになり過ぎたからではありませんか(豈非観聴望深,声名太盛乎)。そのため、俗論(世論)は皆こう言っています『隠居の士はただ虚名を盗んでいる(処士純盗虚声)』。先生が遠謨(遠謀)を拡げて衆人を嘆服させ、この言(「隠居の士が虚名を盗んでいる」という世論)を洗い流せることを願います(願先生弘此遠謨令衆人嘆服,一雪此言耳)。」
黄瓊は朝廷に至ると議郎に任命され、徐々に昇格して尚書僕射になりました。
 
黄瓊は以前、父黄香に従って台閣尚書台)にいたため、いつも故事(前例。旧聞)に接していました。後に尚書僕射の職に就いた時には官曹尚書諸曹の政務)に達練(精通熟練)しており、朝堂で争議することがあっても、黄瓊の意見に反駁できる者はいませんでした。
また、黄瓊はしばしば上書進言を行い、多くが順帝に採用されました。
 
李固は李郃(元司空司徒)の子で、幼い頃から学問を好みました。
頻繁に姓名を変えて、策(鞭)を持って驢を駆けさせ、笈(書箱)を背負って師を求め、千里の旅も遠いとは思わず、墳籍(古代の典籍)を徹底的に読みつくして、ついに当世の大儒になりました。
いつも太学に行くたびに、公府(三公府)に入って父母に定省(「定」は夜の挨拶、「省」は朝の挨拶です)しましたが、秘かに公府を訪ねて、学業を共にする諸生には自分が李郃の子だと知られないようにしました。
 
 
 
次回に続きます。