東漢時代193 順帝(六) 128年

今回は東漢順帝永建三年です。
 
東漢順帝永建三年
戊辰 128
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月丙子(初六日)、京師で地震があり、漢陽の地が陷裂しました。
 
甲午(二十四日)、順帝が詔を発して損害があった者の実情を調査させ、七歳以上の者には一人当たり銭二千を下賜しました。また、一家が被害に遭った者は郡県に收斂(棺に収めて埋葬すること)させました。
 
乙未(二十五日)、順帝が詔を発し、漢陽の本年の田租口賦を免除しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
夏四月癸卯、光禄大夫を派遣して漢陽および河内、魏郡、陳留、東郡を巡幸させ、貧人に稟貸(倉庫を開いて食糧を貸し与えること)しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月、旱害がありました。
 
使者を派遣して囚徒を記録し、刑犯罪者を整理しました(刑犯罪者を調べて一部を釈放したのだと思います。原文「遣使者録囚徒理軽繋」)
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
甲寅、済南王劉顕が死にました。
 
劉顕は済南簡王劉錯の子です。劉錯は安王劉康の子で、光武帝の孫です(順帝永建元年126年参照)
後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、劉顕の諡号は釐王です。子の悼王劉広が継ぎました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、茂陵西漢武帝陵)の園寝(陵園の廟)で火災がありました。
 
順帝は縞素(白い服。喪服)を着て正殿を避けました(「正殿を避ける」というのは、災難が起きた時に帝王が自らを譴責して、正殿から離れて生活することで、恭敬な態度を表します)
 
辛亥、太常王龔を派遣し、符節を持って茂陵で告祠(報告の祭祀)させました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月、鮮卑が漁陽を侵しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十二月己亥(初四日)、太傅桓焉を罷免しました。
 
『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、桓焉は清介(清廉実直)を辟召(招聘)しなかったため、策免されました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
この年、車騎将軍来歴を罷免しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
単于烏稽侯尸逐鞮単于。安帝延光三年124年参照)が死に、弟の休利が立ちました。これを去特若尸逐就単于といいます。
 
[] 『資治通鑑』からです。
順帝が孫程等(十九侯)を全て招いて京師に還らせました。



次回に続きます。