東漢時代194 順帝(七) 元元之災 129年
今回は東漢順帝永建四年です。
東漢順帝永建四年
己巳 129年
春正月丙寅(初一日)、順帝が詔を発しました「朕は王公の上に託されているが、道に登った日が少なく(即位したばかりで。原文「渉道日寡」)、政がその中(中庸)を失っており、陰陽の気が隔てられ、寇盗が自由に暴虐を行い(肆暴)、諸獄がますます増えているので(庶獄彌繁)、憂悴(憂愁)永嘆して病を患ったように頭を痛めている(疢如疾首)。『詩(小雅・節南山)』はこう言っている『君子に賢才を用いるという福があれば、乱はすぐに止むだろう(君子如祉,乱庶遄已)。』三朝の会(年、月、日の最初が重なる時。または年賀の会)、朔旦立春(立春に当たる元旦の朝)に、海内と共に心を洗って自新することを嘉する。よって天下を赦す(大赦する)。
甲寅の赦令(順帝永建元年(126年)正月甲寅(初二日)の大赦)以来、秩と属籍(宗族の籍)を恢復し、三年正月以来、還贖(贖罪のために納めた金銭を還すこと)した。(今回は)閻顕、江京等の知識・婚姻(知人や婚姻関係がある者)に対する禁錮を全て原除(免除)する(一原除之)。務めて寛和を崇め(重視し)、時令に順じることを敬い、法典に則って苛酷を除き(遵典去苛)、そうすることで朕の意にそわせよ(以称朕意)。」
こうして大赦が行われました。
順帝が即位した時は十一歳だったので(安帝延光四年・125年)、本年は十五歳です。
王・主(公主)、貴人、公卿以下の者にそれぞれ差をつけて金帛を下賜しました。
また、男子および戸籍を欲する流民に一人当たり爵一級を下賜し(賜男子爵及流民欲占者人一級)、父の後を継ぐ立場にいる者、三老・孝悌・力田には一人当たり二級を下賜しました。
鰥寡(配偶者を失った男女)・孤独(孤児や身寄りがない老人)・篤𤸇(重病の者)、自存できない者に帛一匹を与えました。
順帝は民が山に入って石を穿っているため、藏気(恐らく地中に蓄えられた気です)を発散させていると考えました。
夏五月壬辰(二十九日)、順帝が詔を発しました「海内で多くの災異が起きているので(海内頗有災異)、朝廷は政を修め、太官は膳(皇帝の食事)を減らし、珍玩(珍しい物や玩賞の物)を進めていない(珍玩不御)。しかし桂陽太守・文礱は忠を尽くして本朝(の意図)を宣暢(宣揚。宣伝)しようと思わず(不惟竭忠宣暢本朝)、遠くから大珠を献上して幸媚(寵愛)を求めた。今、これに封をして返還する。」
胡三省はこう言っています「文礱を罰することなく珠に封をして返しただけでは、徳を明らかにして違反を塞ぐことにはならない(非所以昭徳塞違也)。」
五州で大雨が降って被害が出ました(雨水)。
秋八月庚子(初八日)、使者を派遣して実際に死亡した者を調査させ、死体を棺に収めて家族に食糧を与えました(收斂稟賜)。
秋八月丁巳(二十五日)、太尉・劉光と司空・張皓を罷免しました。
尚書僕射・虞詡が上書しました「安定、北地、上郡は山川が険阨(険阻)で沃野(肥沃な地)が千里にわたり、土は畜牧に相応しく、水(河川)は漑漕(灌漑と水運)ができます。しかし最近は元元の災(下述)に遭い、衆羌が内潰(内乱。叛乱)したため、郡中の兵荒(戦争による禍)が二十余年に及びます。沃壤の饒を棄てて自然の財を放るのは利とは言えません。河山の阻から離れて無険の処を守っても、固守するのは困難です。今は三郡がまだ恢復せず、(長安の)園陵が曝されているのに(園陵単外)、公卿は選懦(柔弱臆病)で、目先の事ばかり考えており(原文「容頭過身(頭さえ通れば体も通過できる)」。とりあえず目先の事が上手くできればいいという意味です)、大げさな言葉で弁解したりいろいろな理由をつけて反対し(張解設難)、ただ発生する費用だけを計算して安寧を図ろうとしません(但計所費不図其安)。聖聴を開いて最善の方法を検討・実行するべきです(宜開聖聴考行所長)。」
「元元之災」について『資治通鑑』胡三省は、「元元」は本来「元二」と書くべきであり、「元二之災」が正しいと解釈しています。「元二」は「元年と二年」の意味で、安帝永初元年(107年)と翌年を指します。永初元年は諸羌が反したため、鄧騭と任尚が出征しており、翌年は詔で「万民が飢流し、羌貊が離反した」と言っています。これらの内容から、胡三省は「元元の災」を「安帝永初元年と二年の災」としています。
しかし『後漢書・西羌伝(巻八十七)』には「元元無妄の災に遭遇した(遭元元無妄之災)」と書かれています。「無妄之災」は「予測できない禍。理由のない禍」です。「元元無妄之災」の「元元」は「元二」ではなく、「民衆」と解釈することもできると思います。「民衆の思いもよらない災禍」という意味です。
九月、順帝が詔を発して安定、北地、上郡の郡府を旧土に還らせました(三郡は安帝永初五年・111年に内地に遷されていました)。
太常・王龔を司空にしました。
冬十一月庚辰(二十日)、司徒・許敬を罷免しました。
鲜卑が朔方を侵しました。
十二月乙卯(二十五日)、宗正・弘農の人・劉崎を司徒に任命しました。
『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、劉崎の字は叔峻で、華陰の人です。華陰は弘農郡に属します。
この年、会稽を分けて呉郡を置きました。
于窴王・放前が拘彌王・興を殺し、自分の子を拘彌王に立てました。
放前は使者を派遣して東漢に貢物を献上しました。
放前はこの要求に従いませんでした。
次回に続きます。