東漢時代195 順帝(八) 沈景 130~131年

今回は東漢順帝永建五年と六年です。
 
東漢順帝永建五年
庚午 130
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
春正月、疏勒王が侍子を派遣しました(子を派遣して入侍させました)
大宛と莎車の王も使者を派遣して貢献しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、京師が旱害に襲われました。
 
辛巳、順帝が詔を発し、郡国の貧人で被災した者は本年の過更(兵役の代わりに納める税)を徴収しないことにしました。
 
京師と十二の郡国で蝗害がありました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
冬十月丙辰(初一日)、順帝が郡国と中都官に詔を発し、死罪の繋囚(囚人)から皆罪一等を減らして北地、上郡、安定の戍(守備)に送らせました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』『後漢書班梁列伝(巻四十七)』と『資治通鑑』からです。
定遠班超の孫班始(班超の長子班雄の子)は順帝の姑(父の姉妹)陰城公主を娶りました。
資治通鑑』胡三省注によると、陰城公主は清河孝王劉慶の娘で、安帝の姉妹に当たります。
また、『順孝沖孝質帝紀』の注によると、陰城公主の名は「賢得」といいます。
 
公主は驕淫(驕慢放縦)無道で、嬖人(寵愛する者)と帷中に住み、班始を招いて床下で伏させました。
忿怒を積もらせていた班始は刃を抜いて公主を殺してしまいました(『資治通鑑』は「伏刃殺主」としていますが、『班梁列伝』では「拔刃殺主」です。『資治通鑑』の「伏」は「抜」の誤りです)
 
乙亥(二十日)、班始が腰斬に坐され、同産(同母兄弟姉妹)も皆、棄市に処されました。
 
 
 
東漢順帝永建六年
辛未 131
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と資治通鑑』からです。
春二月庚午(十七日)、河間王劉開(孝王。章帝の子)が死に、子の劉政が跡を継ぎました。
 
劉政は慠很(傲慢凶暴)で法を守りませんでした。
そこで順帝は侍御史呉郡の人沈景に強能(卓越した能力)があると判断して河間相に抜擢しました。『資治通鑑』胡三省注によると、侍御史の秩は六百石です。王国の相は秩二千石なので抜擢になります。
 
沈景が河間国に到着してから劉政に謁見しましたが、劉政は服を正さず、殿上で箕踞(正座ではなく、両脚を開いて坐ること)していました。
侍郎が賛拝(朝会や謁見の際、臣下の名を読みあげたり拝礼等の指示を出すこと)しました。
しかし沈景は立ったまま謁見の礼を行わず、王がどこにいるのか問います。
虎賁(衛士)が言いました「これが王ではないのか(是非王邪)!」
沈景が言いました「王が服を正さなかったら、常人(平民)と何の区別があるのですか(王不正服,常人何別)。今は国相が王に謁見に来たのです。どうして無礼な者に謁見できますか(今相謁王,豈謁無礼者邪)。」
劉政は恥じ入って服を着替えました。沈景がやっと拝礼します。
 
沈景は退出してから宮門の外で止まり、王傅(諸侯王の教育官。『資治通鑑』胡三省注によると、漢の諸王国には「太傅」がおり、西漢成帝の時代に「傅」に改名されました)を招いて譴責しました「以前、京師を発する時、(陛下に)陛見(謁見)して詔を受けた。(陛下は)王が不恭(礼儀礼節がないこと)であると考えて(私に)検督(検査監督)させた。諸君は虚しく爵禄を受けるだけで、今まで訓導の義がなかったのか。」
沈景は王傅の罪を正すように上奏しました。
 
順帝は詔書を発して劉政を譴責し、王傅を詰責(厳しく問い詰めること)しました。
沈景はこれを機に諸姦人を捕えて罪を裁くように上奏し(奏案其罪)、特にひどい者数十人を誅殺して冤罪の者百余人を獄から出しました。
この後、劉政は節を改め、過ちを悔いて自らを修めました(悔過自脩)
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
伊吾は膏腴(肥沃)な地で西域に近いため、匈奴が利用して侵攻略奪を行っていました(資之以為鈔暴)
 
三月辛亥(二十九日)、順帝が再び伊吾の屯田を開設し、永元時代(和帝時代)の前例に則って伊吾司馬を一人置きました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
安帝が芸文(学術)を軽視したため、博士が講習をしなくなり、朋徒が互いに怠惰散漫になりました(相視怠散)。学舍は(破損。崩壊)・困窮して園蔬(菜園)になり、牧児や蕘豎(柴を刈る者)がその下で薪を刈ることもありました。
 
将作大匠翟酺が上書し、学舎を脩繕して後の者を学問に進ませることを請いました(請脩繕誘進後学)
順帝はこれに従います。
 
秋九月辛巳、太学を修築しました。二百四十房、千八百五十室が造られます。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
烏桓校尉耿曄が兵を送って鮮卑を撃ち、破りました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
丁酉、于闐王が侍子を送って貢献しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
冬十一月辛亥、順帝が詔を発しました「連年の災潦(災害洪水)は冀部冀州が最も甚だしいので、繰り返し実際に被害があった者(の田租)を免除し、困窮した者を救済してきたが(比蠲除実傷贍恤窮匱)、百姓にはまだ業を棄てる者がおり、流亡が絶えない。郡県が用心(心を配ること)を怠惰し、恩沢を宣揚していないのではないかと疑う。『易』は『上を損なって下を益すこと(損上益下)』を美とし、『書尚書』は『民を安んじたら恵みがある(または「民を安んじたら愛される」。原文「安民則恵」)』と称している。よって冀部に命じ、今年の田租芻稾(飼料)を徴収させないことにする。」
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
十二月、日南徼外(界外)の葉調国、撣国が使者を送って貢献しました。
 
『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、葉調国王が師会を派遣し、宮闕を訪ねて貢献させたため、東漢は師会を漢帰義葉調邑君に封じて葉調国君に紫綬を下賜しました。
撣国王雍由(または「雍田」)にも金印紫綬を下賜しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
壬申、客星(新星、または彗星)が牽牛に現れました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
于闐王が侍子を送って宮闕を訪ねさせ、貢献しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
護羌校尉韓皓が湟中の屯田を両河の間に移して群羌を圧迫しました。『資治通鑑』胡三省注によると、両河は賜支河と逢留大河を指します。
 
ところが韓皓は事に坐して(罪を犯して)朝廷に呼び戻されました(坐事徵)
張掖太守馬続が代わって校尉になります。
 
両河の間に住む羌人は屯田が近くなったため、東漢が攻略を謀っているのではないかと恐れました(恐必見図)。そこで、各族間の仇を解いて制約を結び(解仇詛盟)、それぞれ警戒を強めます。
しかし馬続が上奏して屯田を湟中に還したため、羌人が安堵しました。
 
 
 
次回に続きます。