東漢時代196 順帝(九) 梁皇后 132年(1)
今回は東漢順帝陽嘉元年です。三回に分けます。
東漢順帝陽嘉元年
壬申 132年
順帝が皇后を立てようとしましたが、貴人の中に寵愛している者が四人おり、誰を立てるべきか判断できませんでした。そこで探籌(くじ引き)の形式で神に選定させようとしました。
尚書僕射・南郡の人・胡広と尚書・馮翊の人・郭虔および史敞が上書して諫めました「詔書を窺い見たところ、后(皇后)を立てる事は重大なので、(陛下は)謙遜して自ら専らにせず(独断で決定せず)、籌策を借りて霊神の決断を求めようと欲していますが(欲假之籌策決疑霊神)、篇籍(文籍)が記録するところでは、祖宗の典故(前例)において今までになかったことです。神に頼って筮に任せても(『資治通鑑』では「恃神卜筮」ですが『後漢書・鄧張徐張胡列伝(巻四十四)』では「恃神任筮」です。ここは『後漢書』に従いました)、賢人が当たるとは限らず、その人(賢人)に値したとしても(賢人を得たとしても)、やはり徳によって選んだのはありません。優れた姿とは自然に形成されるものであり(夫岐嶷形於自然)、俔天(皇后)には必ず異表(常人とは異なる姿)があるものです(原文「俔天必有異表」。「俔天」は『詩経・大雅・大明』の「大邦有子,俔天之妹(大国に子がおり、天の妹と同じである)」という句が元になっています。西周文王が妻の太姒を称賛した言葉です。「俔」は「比べられる」「同じである」という意味です。後に「俔天」は皇后や公主を指すようになりました)。良家を加えて徳がある者を選び求め、徳が同じなら年齢を比べ、年齢が等しかったら容貌を比べ、典経を考察して聖徳によって決断するべきです(宜参良家簡求有徳,徳同以年年鈞以貌。稽之典経断之聖徳)。」
順帝はこれに従いました。
乗氏侯・梁商の娘が選ばれて掖庭に入り、貴人になりました。梁商は恭懐皇后(和帝の母・梁貴人)の弟の子です。
梁貴人はしばしば順帝から特別に招かれましたが(常特被引御)、従容(落ち着いた様子)として辞退し、こう言いました「陽とは広く施すことを徳とし、陰とは専らにしないことを義とするものです(夫陽以博施為徳,陰以不専為義)。『螽斯(きりぎりす。『詩経・国風』に『螽斯』という詩があり、子孫が繁栄することを歌っているため、「螽斯」は子が多いことの比喩に使われます)』はそのおかげで(子宝に恵まれて)百福が興りました(螽斯則百福所由興也)。陛下が雲雨の均沢(「雲雨」は男女の交わり、「均沢」は均一に恩恵を施すことです)を思い、小妾が罪から免れられることを願います。」
順帝は梁貴人を賢才とみなしました。
春正月乙巳(二十八日)、貴人・梁氏を皇后に立てました。
民で名数(戸籍)が無い者および流民で名乗り出て戸籍を欲した者(流民欲占著者)には一人当たり一級を下賜し、鰥寡(配偶者を失った男女)、孤独(孤児や身寄りがない老人)、篤𤸇(重病の者)、貧しくて自存できない者には一人当たり五斛の粟を与えました。
順帝が詔を発し、沿海の県にそれぞれ兵を置いて守りを固めさせました(各屯兵戍)。
丁巳、梁皇后が高廟と光武廟を拝謁しました。
順帝が詔を発し、甘陵(孝徳皇・劉慶の墓陵)の貧人に大小口(大人と子供)で差をつけて食糧を与えました。
京師で旱害がありました。
また、大夫、謁者を派遣して嵩高と首陽山を訪ねさせ、併せて河・洛を祀り、雨を請いました。
戊辰、雩(雨乞いの儀式)を行いました。
甲戌、順帝が詔を発しました「政がその和を失っているため、陰陽が隔并(節を失うこと。不調なこと)し、冬は宿雪(積雪。冬を越えて積もっている雪)が少なく、春は澍雨(時に順じた雨)がない。そこで各地に別れて祈祷を行い、祀らない神はないが(分祷祈請靡神不禜)、祭祀の場所が『如在(「神が実際にいるように祭らなければならない(祭神如神在)」という意味で、『論語』の言葉です)』の義に慢違(軽視して違えること)していることを深く恐れる(深恐在所慢違如在之義)。よって、今、侍中・王輔等を派遣し、符節を持って岱山、東海、滎陽、河・洛を分かれて訪ねさせる。心を尽くして祈祷せよ(尽心祈焉)。」
『資治通鑑』胡三省注によると、揚州部は九江、丹楊、廬江、会稽、呉、豫章の六郡を管轄しました。
永建七年を陽嘉元年に改元しました。
順帝が詔を発し、宗室で属籍が絶たれた者全てを復籍させました。
夏四月、梁商の位を加えて特進にしました。
暫くして執金吾に任命しました。
夏五月戊寅、阜陵王・劉恢が死にました。
劉沖に子がいなかったため一度途絶えましたが、和帝永元五年(93年)に劉沖の兄・劉魴が阜陵王に封じられました。
劉魴を継いだのが子の懐王・劉恢です。
本年、劉恢が在位十年で死に、子の節王・劉代が継ぎました。
『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、史官は太史令を指し、当時の太史令は張衡でした。
丙辰、太学が新たに完成したため(前年参照)、明経(明経科。儒学に精通した人材の試験)で成績が悪かった者(試明経下第者)を太学博士の弟子にしました(明経の試験で成績が悪い者は太学で学ばせることにしました)。
また、甲科と乙科の定員をそれぞれ各十人に増やしました(あるいは「甲科と乙科の定員をそれぞれ十人増やしました」。原文「増甲乙科員各十人」。元の定員数は分かりません。甲科は成績が最も優れた者、乙科は甲科に次ぐ者です)。
次回に続きます。