東漢時代199 順帝(十二) 郎顗 133年(1)

今回は東漢順帝陽嘉二年です。三回に分けます。
 
東漢順帝陽嘉二年
癸酉 133
 
[] 『資治通鑑』からです。
順帝が、北海の人郎顗(『資治通鑑』胡三省注によると、魯懿公の孫費伯が郎に築城してそこに住んだため、子孫が郎を氏にしました)が陰陽の学に精通していると聞きました。
 
春正月、順帝が詔を発して公車に郎顗を招かせ、災異について問いました。
郎顗が上書しました「三公は上は台階に応じ、下は元首と同じです(『資治通鑑』胡三省注によると、天には「三階」があり、「泰階」といいました。これが「三台」です。上階は天子、中階は諸侯公卿大夫、下階は士庶人を象徴します。三階が平安なら陰陽が和して風雨が時に順じました。「元首」は国君で、臣は元首の股肱(四肢)に当たります。「三公上応台階下同元首」というのは、「三公は、上は天の台階に呼応しており、下は人君と同体である」という意味です)。政がその道を失ったら、寒陰が節に逆らいます。今、位に居る者は、競って高虚を託し(競ってこねを使って実務が無い高位を求め。原文「競託高虚」)、鐘を重ねた俸禄を受け取り(巨額な俸禄を受け取り。原文「納累鍾之奉」。「鐘」は容量の単位です)、天下に対する憂いがありません(亡天下之憂)(彼等は)棲遅偃仰(「棲遅」は自由に遊んだり休むこと、「偃仰」は寝起きすること、自由に進退を決めること)し、病で臥せて安逸を計っていながら(寝疾自逸)、策文(任官の命令書)を被って賜銭を得たらすぐにまた立ち上がっています。どうしてこのように病を患うのが容易で、治癒するのが速いのでしょうか(何疾之易而愈之速)。これによって(このような状況で)災眚(災難)を消伏(消滅)させ、升平(太平)を興致(興隆させて招くこと)することができるでしょうか(其可得乎)。今、牧守を選ぶのは三府に委任しており、長吏(県官)が良くなければ州郡を譴責していますが(咎州郡)、州郡に過失があった時、どうして彼等を推挙した者(三府)に責任を帰さないのでしょうか(豈得不帰責挙者)。陛下は(逆に)彼等を尊重してますます優遇しているため(崇之彌優)、下の者から慢事(怠慢)がますます甚だしくなり、いわゆる『大綱は粗いのに小綱は密である(細かい事には厳しいのに大きな事は見逃している。原文「大網疏,小網數」。「數」は「密」の意味です)』という状態になっています。三公は臣の仇ではなく、臣も狂夫の行動をしているのではありません(臣非狂夫之作)。発憤して食事も忘れ、懇懇が止まないのは(懇切な諫言を止めないのは)、誠に朝廷を念じて興平が至ることを欲しているからです。臣の書は言を択ばず、死んでも恨むことはありません。」
 
郎顗はこれを機に七つの為すべき事(便宜七事)を建議しました「一、園陵で火災があったので(前年、恭陵で火災がありました)、百姓の労を念じて、繕脩の役(宮殿等の修築の労役)を停止するべきです(『後漢書郎顗襄楷列伝(巻三十下)』によると、人君が奢侈になり、宮室の修飾が多くなったら、旱害や火災が起きると言われていました。そのため、神聖な園陵での火災をきっかけに、宮殿官府や園囿の建設修築を停止するように進言しました)
二、立春以後、陰寒が節を失ったので、良臣を採用することで聖化を助けるべきです。
三、今年は少陽の歳(陽気が少ない年)で、春は旱害があり、夏には必ず水害があります(春当旱夏必有水)。前典(以前の典章制度)に則って、節約を考えるべきです(惟節惟約)
四、去年八月に熒惑(火星)が軒轅を出入りしました。宮女を選んで外に出し、自由に姻嫁(結婚)させるべきです(『郎顗襄楷列伝』によると、「軒轅」は後宮を象徴し、「熒惑」は「至陽(盛陽)の精」「天の使者」に当たります。当時は宮人侍御が千人を数え、ある者は一生隔離されていたため、鬱積した気が皇天を感化させました。その結果、天が熒惑を送って軒轅に出入りさせ、皇帝に誤りを悟らせました)
五、去年の閏十月に白気が西方の天苑から参左足に走り、玉井に入りました(『資治通鑑』胡三省注によると、去年の閏十月、客星に白気があり、広さは二尺、長さは五丈ありました。白気は天苑西南で発生しました。天苑は十六星で構成されており、天子の苑囿を象徴します。参は十星(恐らく七星の誤りです)で構成されており、西方白虎の体に当たります。中心の三星は横に並んでおり、三将に当たります。東北の星は左肩で左将、西北の星は右肩で右将、東南の星は左足で後将軍、西南の星は右足で偏将軍です。玉井は四星で構成されており、参の左足の下にあります)。恐らく立秋以後に羌寇畔戾の患羌族が叛して入寇する患)があります(羌は西方の民族です。白は五行の金に当たり、金は秋に当たります)。あらかじめ諸郡に告げて備禦を厳しくするべきです。
六、今月十四日乙卯、白虹が日を貫きました(白虹が太陽を侵しました。『資治通鑑』胡三省注によると、白虹は百殃(禍)の本、衆乱の元です)。中外の官司に命じて、立秋を待ってから考事(審理裁判)させるべきです(『郎顗襄楷列伝』によると、当時は中官外司(朝廷内外の官員、官署)が様々な事件を審理しており、中には急務ではないものもありました。特に昨年、恭陵で火災があってから、多くの者が逮捕されていました。しかし火災は天戒なので、郎顗は皇帝が自分を内省(反省)することで後災に備えるべきだと考え、各種案件の審理を立秋になるまで待つように進言しました。また、甲乙の日(十四日乙卯)に白虹が日を貫いたのは中台を譴責する象だと考え、司徒を免じて天意に応じるように勧めました。中台は三公を指します。『郎顗襄楷列伝』の注によると、三公は司空、司徒、司馬(太尉)で、司馬は天を、司空は地を、司徒は人を主管します。陰陽が調和せず、星辰が度を失ったら司馬の責任です。山陵が崩れて川谷が流れなくなったら司空の責任です。五穀が育たず、草木が茂らなくなったら司徒の責任です。十干のうち「甲乙」は春に当たり、五穀が育つ時なので、この時期に現れた白虹は司徒の責任とされました)
七、漢興以来三百三十九歳が経ち、三朞(三期)を経過しました。大いに法令を除いて変更するべきです(宜大蠲法令有所変更)。王者は天に従うものであり、その様子は春から夏に向かって青服を赤服に換えるようなものです(青は春の色、赤は夏の色です。原文「譬猶自春徂夏改青服絳也」)。文帝が刑を省いてから西漢文帝前十三年167年)ちょうど三百年になりますが、軽微の禁(細かい禁制、法令)がしだいに殷積(蓄積)しています。王者の法とは江河のようなものなので、(民が)避けやすく犯し難いようにするべきです(当使易避而難犯也)。」
 
二月、郎顗が黄瓊や李固を推挙し、抜擢するように上書しました。
またこう言いました「冬から春にわたって今に至るまで嘉沢(時に順じた雨)がなく、しばしば西風が吹いて時節に逆らっています(原文「反逆時節」。『資治通鑑』胡三省注によると、春は東風が吹くはずです)。そのため朝廷が労心し、広く祷祈(祈祷)を行い、山川に祭を薦めて(薦祭山川)、暴龍が市を移動しています(原文「暴龍移市」。「暴龍」は「龍舞」だと思います。あるいは「龍を曝す」という意味かもしれません。『資治通鑑』胡三省注によると、春旱に遭遇したら甲乙の日に蒼龍と小龍が街を歩きました。夏は丙丁の日に赤龍、季夏(六月)は戊己の日に黄龍、秋は庚辛の日に白龍、冬は壬癸の日に黒龍です。それぞれ里の北門から市中に入って祈祷しました。尚、「暴龍が市を移動した」と訳しましたが、「移市」は「市を移した」という意味かもしれません。『資治通鑑』胡三省注は「(昔)旱害があった時、魯穆公が県子に意見を求めると、県子は『市を移せばいい(徙市可也)』と答えた」と解説しています。その場合は「龍舞が市を移動した」のではなく、「龍舞を行い、市を移動した」という意味になります)
しかし臣が聞いたところでは、皇天が物に感じる時、偽りによっては動かされないといいます(不為偽動)。災変は人に応じて起きるので、自分を責めて反省することが重要です(要在責己)。もし雨に請えば水を降らせたり止めたりすることができるのなら(若令雨可請降水可攘止)、歳に隔并(水旱の害)が無くなり、太平を待つだけとなります(太平可待)(祭祀を行っても)災害が止まないのは、患(災害の原因)がそこにないからです(祈祷では解決できないからです。祭祀の不足ではなく、他に原因があるからです)。」
 
上奏文が提出されると、順帝は郎顗を尊んで特別に郎中に任命しました。
しかし郎顗は病いと称して辞退しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
甲申、順帝が詔を発し、呉郡、会稽が飢荒(飢饉による荒廃)しているため、人()に種糧(穀物の種や食料)を貸し出しました。
 
 
 
次回に続きます。