東漢時代200 順帝(十三) 宋娥の封爵 133年(2)

今回は東漢順帝陽嘉二年の続きです。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月、使匈奴中郎将趙稠が従事に南匈奴左骨都侯等の兵を率いさせ、塞から出て鮮卑を撃たせました。漢と匈奴の軍が鮮卑を破ります。
 
尚、「趙稠」は『後漢書烏桓鮮卑(巻九十)』と『資治通鑑』の記述で、『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』では「王稠」です。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
辛酉、京師に住む六十歳以上の耆儒(徳が高い老齢の儒者四十八人を郎、舍人および諸王国の郎に任命しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
夏四月、再び隴西南部都尉の官を置きました。
 
『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、西漢武帝が南部都尉を隴西臨洮県に置きましたが、中興(東漢建国)以来、廃されていました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
順帝が即位した時、乳母宋娥も謀議に参与したため、順帝は宋娥を山陽君に封じました。
また、執金吾梁商(梁皇后の父)の子梁冀を襄邑侯に封じました。
 
尚書左雄が封事(密封した上書)を提出しました「高帝の約(約束)では、劉氏でなければ王になれず、功績がなければ侯になれないことになっています(非劉氏不王,非有功不侯)。孝安皇帝は江京、王聖等を封じて地震の異を招きました(安帝建光元年121年に江京を都郷侯に封じ、延光二年123年に王聖を野王君に封じました。どちらの年も地震がありました)(順帝)永建二年127年)に陰謀の功を封じた時も(この事について『資治通鑑』胡三省注は「史書に記述がない(不見于史)」と書いています)、また日食の変がありました。数術の士(天文、占卜の士)は皆、咎を封爵に帰しています。今、青州は饑虚しており(飢餓のため荒廃しており)、盗賊が止みません。誠に遡って小恩を表彰して大典(重要な法令、規則)を損なうべきではありません(不宜追録小恩虧失大典)。」
順帝は詔を発して左雄の進言を却下しました。
 
左雄が再び諫めて言いました「臣が聞くに、忠正を好まず、讒諛(讒言・阿諛)を嫌わない人君はいません。しかし歴世の患は、全て忠正が罪を得て讒諛が倖(寵愛)を蒙ったことが原因でした(人君莫不好忠正而悪讒諛,然而歴世之患莫不以忠正得罪,讒諛蒙倖者)。これは恐らく、忠を聞くのが難しく、諛(阿諛追従)に従うのが易しいからです。刑罪(刑罰)とは人情が甚だ悪とするところです(人が嫌うことです)。貴寵とは人情が甚だ欲するところです。だから時俗(世俗。世間)において、忠を為す者は少なく、諛を習慣とする者(習諛者)が多く、(臣下は)人主にしばしばその美(長所。功績)を聞かせてもその過ちは稀にしか知らせず、(人君)は惑わされて悟ることなく危亡に至るのです。
臣が伏して詔書を見たところ、阿母の旧徳宿恩(過去の恩徳)を顧念して特別に顕賞を加えようと欲していますが、尚書の故事に則るなら(『資治通鑑』胡三省注によると、漢の故事前例は尚書が把握しています)、乳母に爵邑を与える制はありません。ただ先帝の時に阿母王聖が野王君になりましたが、王聖は讒賊(讒言中傷)廃立の禍を造生し(造り出し)、生きている間は天下に咀嚼(呪詛)され、死んだら海内に歓快歓喜されました。桀紂は貴くも天子になりましたが、庸僕(奴僕)でも並べられるのを羞じとするのは(羞與為比者)(桀紂に)義が無かったからです。夷(伯夷叔斉)は賎しい匹夫(庶人)でしたが、王侯でも争って組しようとするのは(争與為伍者)(夷斉に)徳があったからです。今、阿母は自ら倹約を行い(躬蹈倹約)、その身によって下を率いているので、群僚蒸庶(衆庶)で敬慕しない者はいません(莫不向風)。しかし王聖と爵号を同じくしたら(並同爵号)、本操(本来の節操)に違えて常願(常に抱いている願い)を失うことになるのではないかと懼れます。
臣の愚見によるなら、およそ人の心とは、理において遠いはずがなく(離れているはずがなく。原文「理不相遠」)、不安とするところは古今とも一つです。百姓は王聖の傾覆の禍に深く懲りており、民萌(民氓。民衆)の命は累卵(積み重ねた卵)のように危険なので(危於累卵)、時世(時代。現在)において再び類似の事が起きるのではないかと常に懼れ、怵惕(恐怖、警戒)の念がまだ心から離れず、恐懼の言がまだ口から絶たれていません。前議(左雄が以前述べた意見)の通り、歳(年)ごとに千万を阿母に給奉(供給。提供)することを乞います(これ以前に左雄は銭千万を与えるように建議していたようです)。こうすれば内は恩愛の歓を尽くすに足り、外は吏民に怪しまれることがありません(譴責されることがありません。原文「不為吏民所怪」)
梁冀の封は、事が機急(緊急)ではないので、災戹の運(災厄の運気)が過ぎてから、可否を評議するべきです。」
 
左雄の諫言がきっかけで梁商が子(梁冀)の封侯を辞退しました。
上書が十余回に及んだため、順帝がやっと同意します。
但し宋娥の爵位はそのままです。
 
夏四月乙亥(二十九日)、京師で地震がありました。
 
五月庚子(初一日)、順帝が群公(三公)と卿士に詔を発しました「朕は不徳によって鴻業を統奉(継承)したので、乾坤を奉順することも(天地を順和させることも)陰陽を協序(協調)することもなく、災眚(災難)がしばしば現れて咎徵(過失に対する応報)が頻繁に至っている。地動の異は京師から発したので、矜矜畏敬して(「矜矜」は恐れる様子です)判断するところを知らない(どうすればいいのか分からない。原文「矜矜祗畏不知所裁」)。群公卿士は何をもって不逮(不足)を匡輔(矯正補助)し、戒異に答えるつもりだ(奉荅戒異)?異(異変)とはいたずらに設けるものではなく、必ず応じるところがある。よってそれぞれ心を尽くして咎を直言し、隠すことがあってはならない(靡有所諱)。」
 
順帝は同時に「敦樸(忠厚朴実)の士」をそれぞれ一人挙げさせました。
 
左雄が上書しました「先帝が野王君(王聖)を封じたら漢陽の地が震えました。今、山陽君(宋娥)を封じたらまた京城が震えました。専政が陰にあると(政治が女に集中すると)、その災は特に大きくなります。臣は封爵が至重(重大な事)であり、王者は私情によって人に財を与えることはあっても、(私情によって人に)官を与えてはならない(可私人以財不可以官)ということを、前後して瞽言(妄言。進言。謙遜の言葉です)しました。阿母の封を還して災異を塞ぐべきです。今、梁冀は既に高譲しました(高尚な態度で辞退しました)。山陽君もその本節を崇めるべきです(自分の本来の節操を尊ぶべきです)。」
左雄の諫言が切至(懇切で理があること)だったため、宋娥も畏懼して辞退しました。
しかし順帝は恋恋として諦められず、結局、封爵しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この頃、大司農劉據が職事(職務)において譴責を受けました。
劉據が召されて尚書に向かった時、(官吏から)大きな声で速く歩くように催促され(伝呼促歩)、しかも捶撲(殴打。鞭や棒で打つこと)を加えられました。
左雄が上書しました「九卿の位は三事(三公)に次ぎ、大臣に列しており(班在大臣)、行いには佩玉の節があり、動けば庠序(学校。教養)の儀があります。孝明皇帝から撲罰が始まりましたが、全て古典(古の制度)ではありません。」
順帝はこの意見を採用しました。
この後、九卿で捶撲される者が無くなりました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
戊午(十九日)、司空王龔を罷免しました。
後漢書張王种陳列伝(巻五十六)』によると、王龔は地震が原因で策免されました。
 
六月辛未(初二日)、太常魯国の人孔扶を司空にしました。
『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、孔扶の字は仲淵です。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
疏勒国が師子(獅子)と封牛を献上しました。
 
『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、疏勒王盤が文時(人名)を派遣して宮闕を訪ねさせました。
「封牛」は「峰牛」ともいい、首の上が隆起した牛です。
 
 
 
次回に続きます。