東漢時代201 順帝(十四) 龐参 133年(3)

今回で東漢順帝陽嘉二年が終わります。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
(六月)丁丑(初八日)、雒陽宣徳亭の地が裂けました。長さが八十五丈に及びます。
資治通鑑』胡三省注によると、宣徳亭は雒陽近郊の地で、平城門(南門)の外にあったようです。
 
順帝は公卿が推挙した敦樸の士を招いて対策(皇帝の問いに答えること)させました。特に当世の弊害と為政においてなすべき事(当世之敝,為政所宜)を問います。
 
李固が回答して阿母宋娥や外戚、宦官の権勢を抑えるように進言しました。
長いので別の場所で紹介します。

東漢時代 李固の対策


扶風功曹馬融も皇帝の問いに答えました「今は科條品制(法令規定)、四時の禁令において、天命を受けて民意に順じている(承天順民)ものが、備わりそろっているので、これ以上加えることができません(備矣悉矣不可加矣)。しかしそれでも天にまだ不平の效(反応)があり、民にまだ咨嗟(嘆息)の怨があるのは、百姓が頻繁に恩沢の声を聞きながら、恵和の実をまだ見ていないからです。
古において民を充足させた者(古之足民者)は、家を豊かにして人を富裕にできたのではなく(非能家贍而人足之)、財用(財物)を量って制度を作ったのです。そのおかげで、嫁娶(婚姻)の礼が倹(質素)になって適時に結婚できるようになり(嫁娶之礼倹,則婚者以時矣)、喪祭の礼が約(簡約)になって死んだ者が埋葬されるようになりました(喪祭之礼約,則終者掩藏)
また、その時を奪わなければ(農事を妨害しなければ。必要ない労役を課さなければ)、農夫に利があります。妻子は人の心から離れず(人は妻子を忘れることができず)、産業(財産)は人の志を重くするものです(夫妻子以累其心,産業以重其志)。これらを棄てて非を為す者がいたとしても、必ず多くはありません(民が妻子や財産を持って安定した生活を送れるようになれば、罪を犯す者が少なくなります)。」

太史令(『資治通鑑』胡三省注によると、太史令は太常に属し、秩は六百石です。天時、星暦を担当します)南陽の人張衡が答えました「始めて孝廉を挙げてから今までで二百歳(年)になり、皆が孝行を優先したので、行(行動。孝行)に余力ができてから始めて文法を学びました(孝行を徹底して余力がある者が学問を修めました)。しかし辛卯の詔書(前年冬十一月辛卯の詔書で、(孝廉を)章句奏案ができる者に限ったため、たとえ至孝があっても、科(試験。選挙)に応じなくなりました。これは本を棄てて末を取ることです。曾子は孝に長じていましたが、実に魯鈍で、文学は游(言偃と卜商)に及ばず、政事は冉冉有と仲由)に及びませんでした。今、一人にこれを兼ねさせようと欲したら、とりあえず外は観ることができても(外見は優れていても)、内に必ず闕(欠陥)があり、孝廉を選挙する志と違えてしまいます。しかも郡国の守相は符を割って辺境を安寧にし、国の大臣になったのに(剖符寧境為国大臣)、一旦にして十余人が免黜(罷免)されました(済陰太守胡広等を指します)。そのため吏民は送迎の役に疲弊し、新故(新旧)が交代する際には公私で放濫(浪費。または節度がないこと)しています。ある者は政事に臨んで百姓の便となりながら、小過によって免じられています。これは民の父母を奪って嗟号(嘆息哀号)させることです。『易』には「過ちが遠くなる前に改める(不遠復)」とあり、『論(『論語』)』には「改めることを恐れない(不憚改)」とあります。朋友の交接(交流)でも過ちを留めない(そのままにしない)ものです(不宿過)。帝王とは天命を受けて万物を治め(承天理物)、天下を公とするものなのでなおさらでしょう。中間以来、妖星が上に現れ、震裂が下に現れました(「中間」が何を意味するか分かりません。『資治通鑑』胡三省注によると、本年四月壬寅と五月癸巳、太白が昼に現れました。また、永建三年128年)に京師で地震があり、本年も宣徳亭の地が裂けました)。天誡は既に詳しく(明らかで)、心を寒くさせます。明者は芽が出る前に禍を除くものです(銷禍於未萌)。今既にこれらが現れたので、政治を修めて恐懼するべきです。そうすれば禍を福に転じられます。」
 
順帝は衆対(諸回答)を閲覧し、李固を第一としました。
すぐに阿母宋娥を皇宮から出して舍(家)に還らせます爵位は奪っていません)
諸常侍が皆、叩頭謝罪したため、朝廷が粛然としました。
 
順帝は李固を議郎に任命しました。
しかし阿母と宦者が李固を嫌ったため、偽りの飛章(緊急の上奏文、または匿名の上奏文)を作って李固を罪に陥れました。
順帝はこの件を尚書を通さず直接群臣に調査させました(原文「事従中下」。『資治通鑑』胡三省注が「従中下」は「尚書を通さないこと」と解説しています)
大司農南郡の人黄尚等が梁商に李固を助けるように請い、僕射黄瓊もこの事件を明らかにして李固を救ったため、李固は久しくしてやっと釈放され、洛令(または「雒令」。『資治通鑑』胡三省注によると、雒県は広漢郡に属します)に遷されました。
しかし李固は官を棄てて漢中に還りました。
 
馬融は経籍に広く通じており、文辞が美しかったため、対奏(対策。皇帝への回答)の後、議郎になりました。
 
張衡は属文(撰文。文章を書くこと)を善くし、「六芸」に精通しており、才がとび抜けて優れていましたが(才高於世)、驕尚(驕慢自大)の情がありませんでした。また、機巧(巧妙な機械)を作るのが得意で、特に天文・陰陽・暦算の研究に専念しており、「渾天儀」を作って『霊憲』を著しました。
「渾天儀」は天体の位置を測定する器械、『霊憲』は張衡による天文の研究をまとめた書です。
資治通鑑』胡三省注によると、天体の学説には三家がありました。「周髀」「宣夜」「渾天」です。このうち、「宣夜」の学は既に伝わっておらず、「周髀」は誤りが多いので史官に用いられませんでした(「周髀説」は、お盆のような地を傘のような天が覆っているという学説です)。「渾天」だけは実情に近く、後の史官はこの説を根拠に天体を観測しました(「渾天説」は、天体は丸い卵のようなもので、地球はその中にある卵黄のような存在であるという学説です)
胡三省が「渾天儀」と『霊憲』について詳しく解説していますが省略します。
 
張衡の性は恬憺(淡白。名利に興味がないこと)としており、当世を羨むことがなかったため、官に就いて年を重ねても昇格しませんでした。
 
[十一] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀からです。
この月(六月)、旱害がありました。
 
[十二] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀と『資治通鑑』からです。
太尉龐参は三公の中で最も忠直として知られていたため、しばしば順帝の左右の者に讒言されました。
この頃、龐参が推挙して用いた者が皇帝の意旨に逆らったため、司隸が承風(上官に迎合すること)してこれを追求しました。
ちょうど朝廷が茂才や孝廉を集めましたが、龐参は弾劾の上奏をされたため、病と称して会を欠席しました。
広漢の上計掾段恭が会に出た機会に上書しました(『資治通鑑』胡三省注によると、郡国は年ごとに茂才孝廉を推挙し、上計吏(毎年郡国の状況を報告する官吏)と共に京師に送りました。受計(皇帝が郡国の報告を受けること)の日は公卿が朝廷に集まり、茂才孝廉も参加しました)「伏して道を行く人(道路行人)や農夫、機織りの婦人(織婦)を見るに、皆こう言っています『太尉龐参は忠節を尽くしているのに(竭忠尽節)、ただ直道によって心を曲げることができないため、群邪の間で孤立し、自ら中傷の地に身を置いている。』讒佞によって忠正を傷毀(誹謗中傷)するのは、天地の大禁、人主(『資治通鑑』は「人臣」としていますが、『後漢書李陳龐陳橋列伝(巻五十一)』では「人主」です。『資治通鑑』の誤りです)の至誡(最も戒めなければならないこと)です。昔、白起が死を賜った時、諸侯が酒を注いで互いに祝賀しました(酌酒相賀)。季子(魯の賢人)が帰って来た時は、魯人が紓難(困難を解くこと、災難を除くこと)を喜びました。国とは賢によって治め、君とは忠によって安んじるものです。今、天下は皆、陛下にこのような忠賢がいることを喜んでいます。(陛下が龐参を)寵任して社稷を安んじることを願います。」
上書が提出されると、順帝は詔によって小黄門を派遣し、龐参を看病させました。また、太医を送って羊と酒を届けます。
しかし、後に龐参の夫人(後妻)が前妻の子を嫌ったため、井戸に投げて殺してしまいました。
雒陽令祝良が上奏して龐参の罪を弾劾します。
 
秋七月己未(二十日)、龐参が災異を理由に罷免されました。
 
八月己巳(初一日)、大鴻臚沛国の人施延を太尉に任命しました。
『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、施延の字は君子といい、蘄県の人です。蘄県は沛国に属します。
 
[十三]  『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と資治通鑑』からです。
鮮卑が代郡馬城(県名)を侵しました。
代郡太守がこれを撃ちましたが、勝てませんでした。
 
間もなくして、其至犍(其至鞬)が死にました。
この後、鮮卑による抄盗(侵略、略奪)は以前より少なくなりました。
 
[十四] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀からです。
冬十月庚午、辟雍(学校)で礼(儀式)を行いました(行礼)
応鍾を奏で、黄鍾を恢復し、月律に基いて楽器を作るようにしました。
 
「応鍾」と「黄鐘」は古代の音律(十二律)の一つで、「黄鐘」が音律の基準になります。
一年十二カ月の音楽は十二律に当てはめられていました。正月の律は「太蔟」、二月の律は「夾鍾」、三月の律は「姑洗」、四月の律は「仲呂」、五月の律は「蕤賓」、六月の律は「林鍾」、七月の律は「夷則」、八月の律は「南呂」、九月の律は「無射」、十月の律は「応鍾」、十一月の律は「黄鍾」、十二月の律は「大呂」です。この月は十月なので、「応鐘」の音律で演奏されました。
『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、元和(章帝の年号)以来、音律が乱れていたため、今回、旧典に合わせて修復しました。
 
 
 
次回に続きます。