東漢時代203 順帝(十六) 梁商 135年
今回は東漢順帝陽嘉四年です。
東漢順帝陽嘉四年
乙亥 135年
春、北匈奴の呼衍王が車師後部を侵しました。
順帝は敦煌太守に命じ、兵を発して援けさせましたが、勝てませんでした。
順帝は宦官の力によって帝位に即くことができました。そのため、宦官が順帝の寵信を得て政事に参与するようになりました。
御史・張綱が上書しました「文・明二帝を窺い尋ねるに(考察するに。原文「竊尋文明二帝」)、(二帝は)徳化が最も盛んで、中官常侍は二人しかおらず、近倖(近臣・寵臣)への賞賜も数金を満たしただけで、労費を惜しんで民を重んじたので、(民は)家が豊かになって人々が充足しました(惜費重民故家給人足)。しかし最近では(頃者以来)、功がない小人でも皆、官爵があります。これは民を愛して器(国家)を重んじ、天に則って道に順じることではありません(非愛民重器承天順道者也)。」
上奏が提出されましたが、順帝は相手にしませんでした(不省)。
張綱は張皓(安帝延光三年・124年参照)の子です。
昨年の冬からこの月(二月)まで旱害に襲われました。
謁者・馬賢が鍾羌を撃って大破しました。
夏四月甲子(初五日)、太尉・施延を罷免しました。
『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、施延は貪汚の者を択んで推挙したため策免されました。
戊寅(十九日)、執金吾・梁商を大将軍に任命し、元太尉・龐参を再び太尉にしました。
当時、梁商は病と称しており、一年近く起ちあがりませんでした。
順帝は太常・桓焉に策書を持たせ、梁商の家で大将軍に任命しました(就第即拝)。梁商は宮闕を訪ねて命を受けます。
『資治通鑑』胡三省注によると、後漢(東漢)の諸王侯や三公を策拝(封侯・任命)する儀礼では、百官が会に参加しました(胡三省が策拝の儀式について詳しく解説していますが省略します)。西漢以来、衛青だけが軍中で大将軍を拝命しましたが、家で拝命した者はいません。
梁商は若い頃から経伝に通じており、謙恭で士を愛しました。漢陽の巨覧(巨が姓、覧が名です)、上党の陳亀を招いて掾属にし、李固を従事中郎に、楊倫を長史にしました。
李固は梁商が柔和(柔弱温和)で自分を守っており、整裁(決断)する能力がないと考えました。そこで梁商に奏記(文書)を提出してこう言いました「数年以来、災怪がしばしば現れています。孔子は『智者は変を見て形(『資治通鑑』では「形」ですが、『後漢書・李杜列伝(巻六十三)』では「刑」です)を思い、愚者は怪を見てもその名を口にすることを避ける(智者は変事を見て実情や原因を考え(または「刑罰について考え」)、愚者は怪異を見ても見ないふりをする。原文「智者見変思形,愚者覩怪諱名」)』と言いました。天道とは親(親疏。偏り)がなく、畏敬すべきものです(天道無親可為祗畏)。もしも王綱(朝廷の綱紀)を一整(一律整頓)させ、道を行って忠を立てたら、明公は伯成の高を継ぎ(伯成のような高尚な態度を継ぎ。『資治通鑑』胡三省注によると、伯成は「伯成子高」といい、堯・舜の時代に諸侯になりましたが、禹(夏王朝)の時代になると爵位から去って野を耕しました)、不朽の誉を全うできます。どうして栄華を貪って高位を愛す凡庸な外戚(外戚凡輩耽栄好位者)と同日に論じられるでしょう。」
梁商はこの進言を用いることができませんでした。
六月己未、梁王・劉匡が死にました。
秋七月己亥、済北王・劉登が死にました。
秋閏八月丁亥朔、日食がありました。
冬十月、烏桓が雲中を侵しました。
度遼将軍・耿曄が追撃しましたが、勝てませんでした。
十一月、烏桓が蘭池城で耿曄を包囲しましたが、(東漢が)兵数千人を動員して救ったため(『孝順孝沖孝質帝紀』は「諸郡の兵を発した」としていますが、『資治通鑑』では「諸郡」を省いて「数千人」を加え、「兵数千人を発した」としています。『後漢書・烏桓鮮卑列伝(巻九十)』によると、積射士二千人と度遼営の千人を動員して上郡屯に配置し、烏桓を討伐させました)、烏桓は退走しました。
次回に続きます。