東漢時代204 順帝(十七) 梁冀 136年

今回は東漢順帝永和元年です。
 
東漢順帝永和元年
丙子 136
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
春正月、夫餘王が来朝しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
乙卯(初一日)、順帝が詔を発しました「朕が政事を行って英明ではないので(秉政不明)、災眚(災難)がしばしば至っている。典籍が忌すところでは震・食を重とする(典籍が忌避する災害は地震と日食を最も重大なものとしている)。今回、日変(日食)は遠方だったが(日変方遠)、地は京師で揺れた(『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、前年、順帝が詔を発して『朕の不徳によって讁(譴責)が天に現れ、零陵が日食を報告したが、京師は気がつかななった(不覚)』と言いました。「遠方の日変」は零陵の日食を指すようです)。咎徵(咎の兆し)は虚(実体がないこと)ではなく、必ず応じるところがある。群公百僚はそれぞれ封事(密封した上書)を提出して得失を指陳(指摘)せよ。憚って隠すことがあってはならない(靡有所諱)。」
 
己巳(十五日)、明堂で宗祀(祭祀)を行い、霊台に登り、陽嘉五年から永和元年に改元して、天下に大赦しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
秋七月、偃師(地名)で蝗害がありました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月丁亥(初七日)、承福殿で火災がありました。
順帝は火災を避けて雲台に入りました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
十一月丙子(二十七日)、太尉龐参を罷免しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月、象林の蛮夷が反しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
乙巳(二十六日)、元司空王龔を太尉に任命しました。
 
王龔は宦官の専権を嫌っていたため、宦官の状況を訴えて上書極言(直言、諫言)しました。
すると諸黄門が客を使って王龔を誣告し、罪を上奏しました。
順帝は王龔に命じて速やかに罪を自白させました(亟自実)
 
李固が梁商に奏記(文書)を提出してこう言いました「王公(王龔)は堅貞の操が原因で、突然、讒佞によって理由もなく陥れられました(横為讒佞所構)。これを聞いた衆人で歎慄(感嘆・戦慄)しない者はいません。三公の尊重(尊貴重要な立場)には、自ら司法に赴いて冤罪を訴える道理(詣理訴冤之義)はありません。わずかに感慨(憤激、不満)があったとしても自決するものなので(纖微感慨輒引分決)、旧典においては大罪がなく、重問(重罪に対する審問)に至らなかったのです(三公が朝廷に対して不満を抱いたとしても、獄に入れて裁くことはなく、罪を公けにしないで自殺させたので、三公が大罪を犯したという前例はありません)。王公に突然他変があったとしたら(王公の身に何かあったら。罪を問われたため自殺してしまったら)、朝廷(皇帝)は賢才を害したという名を得ることになり、群臣は救護の節がないことになってしまいます(朝廷獲害賢之名,群臣無救護之節矣)。『善人に患難があったら、飢えていても食事に及ばない(食事をする時間を惜しんで善人を助けに行く。原文「善人在患,飢不及餐」)』という言葉があります。今がその時です(斯其時也)。」
 
梁商が納得してすぐ順帝に進言したため、この件は収束しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、執金吾梁冀が河南尹になりました。
 
梁冀は酒を好んで遊楽放縦しており(性嗜酒逸遊自恣)、官職に就いてから暴虐非法の事が多数ありました。
父の梁商が親しくしていた門客に雒陽令呂放がいました。ある日、呂放が梁冀のことを梁商に告げたため、梁商が梁冀を譴責しました。
すると梁冀は人を送って路上で呂放を刺殺してしまいました。
その後、梁商に知られることを恐れたため、呂放の怨仇(呂放に怨みを抱く者)に罪を着せ、呂放の弟呂禹を雒陽令に任命するように請い、犯人を逮捕させました。
呂禹はその宗親(宗族親戚)賓客百余人を皆殺しにしました。
 
最後の部分の『資治通鑑』と『後漢書梁統列伝(巻三十四)』の原文は「請以放弟禹為洛陽令(雒陽令),使捕之,尽滅其宗親賓客百余人」です。
『梁統列伝』の注は「(呂禹を洛陽令にすることで)呂放の家を安慰し、口止めしようとした(欲以滅口)」と書いています。この場合、殺された百余人は呂放に怨みがある者の宗親賓客を指すようです。
しかし『資治通鑑』胡三省注はこう書いています「梁冀は呂放の弟を令にするように梁商に請い、『急いで賊を逮捕する必要がある』と言ったが、同時に秘かに呂禹を使って兄の宗親賓客を滅ぼさせ、自分の呂放に対する怨みを晴らした(而陰使禹滅其兄之宗親賓客以快己忿耳)。」
この場合、殺された百余人は呂放の宗親賓客になります。
 
[] 『資治通鑑』からです。
武陵太守が上書しました。蛮夷が既に率服(部衆を率いて服従すること)したので、待遇を漢人と同等にして租賦を増やすべきだという内容です。
議者は皆これに賛同しましたが、尚書虞詡がこう言いました「古から聖王は異俗を臣にしませんでした(異民族を臣民とみなしませんでした)。先帝の旧典が貢賦の数を決めており(資治通鑑』胡三省注によると、漢が興きてから、武陵諸蛮の税は、大人は一年に布一匹、小口(子供)は二丈と決められていました。これを「賨布」といいます)、既に久しくなります(先帝旧典貢賦多少,所由来久矣)。今、妄りにこれを増やしたら(今猥増之)、必ず怨叛を招きます。増税によって)得る額を計っても、(討伐のために)費やす額を償えないので、必ず後悔します(計其所得不償所費必有後悔)。」
順帝は諫言に従いませんでした。
その結果、貢布が旧約(以前の約束)と合わないことに澧中と漊中の蛮族が反対しました。
彼等は郷吏を殺し、それぞれ族人を率いて挙兵します(翌年に続きます)
 
 
 
次回に続きます。