東漢時代205 順帝(十八) 宋娥と九侯 137年

今回は東漢順帝永和二年です。
 
東漢順帝永和二年
丁丑 137
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、武陵蛮二万人が叛して充城を包囲し、八千人が夷道を侵しました。
資治通鑑』胡三省注によると、充県は武陵郡に属し、夷道は南郡に属します。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
二月、広漢属国都尉が白馬羌を撃破しました。
資治通鑑』胡三省注によると、安帝が蜀郡北部都尉を広漢属国都尉に改め、陰平、甸氐、剛氐の三道を管轄させました。益州に属します。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
順帝が武陵太守李進に叛蛮(挙兵した異民族)を撃たせました。
李進は叛蛮を破って平定し、良吏を選んで蛮夷を撫循しました。そのおかげで郡境が安定しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
三月辛亥(初四日)、北海王劉翼が死にました。
 
北海王は劉興(靖王)の家系で、劉興は光武帝の兄劉縯の子です。
劉翼の諡号は恭王で、頃王劉普の子です(劉普は劉興の曾孫に当たります。和帝永元八年96年および安帝永初元年107年参照)
後漢書宗室四王三侯列伝(巻十四)』によると、劉翼の子康王が跡を継ぎました。康王の名は伝わっていないようです。『補後漢書年表』も「康王某」「名闕文(名は記録が失われている)」と書いています。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月乙卯(八日)、司空王卓が死にました。
 
丁丑(三十日)、光禄勳馮翊の人郭虔を司空にしました。
『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、郭虔の字は君賢で、池陽の人です。池陽は左馮翊に属します。
また、『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、袁宏の『後漢書後漢紀)』では「郭乾」と書かれています。『資治通鑑』は范瞱の『後漢書』に従っています。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月丙申(十九日)、京師で地震がありました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
五月、日南の叛蛮(挙兵した少数民族が郡府を攻撃しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
癸丑(初六日)、山陽君宋娥(順帝の乳母)が構姦誣罔の罪(姦人と結んで欺瞞誣告を行った罪)に坐し、印綬を没収されて里舍(故郷の家)に帰されました。
黄龍、楊佗、孟叔、李建、張賢、史汎、王道、李元、李剛の九侯も、宋娥と賄賂のやり取りをして高官増邑を求めたという罪で封国に送られ、税収の四分の一を減らされました(減租四分之一)
 
後漢書宦者列伝(巻七十八)』には「黄龍、楊佗、孟叔、李建、張賢、史汎、王道、李元、李剛の九人が阿母山陽君宋娥と賄賂のやり取りして高官増邑を求め、また、中常侍曹騰、孟賁等を誣罔(誣告)した。永和二年(本年)、それらが発覚して封国に送られ、租の四分の一が減らされた」と書かれています。
しかし『後漢書梁統列伝(巻三十四)』では永和四年に中常侍張逵等が曹騰、孟賁等を誣告しています。
資治通鑑』は『宦者列伝』の記述から「中常侍曹騰、孟賁等を誣罔した」という内容を省いています(胡三省注参照)
 
また、『後漢書宦者列伝』によると、十九侯(封侯された十九人の宦官)のうち、王康、王国、彭愷、王成、趙封、魏猛の六人は早くに死に、孫程も浮陽侯から宜城侯に改められた後(永建元年126年)、陽嘉元年132年)に死にました。今回、九人が罰を受けて田租を減らされ、馬国、陳予、苗光の三人だけが最初の封邑を保つことができました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
象林蛮の區憐等(區が氏です)が県寺(県の官署)を攻めて長吏を殺しました。
交趾刺史樊演が交趾(交阯)と九真の兵一万余人を徴収して救援に向かいましたが、兵士は遠役(遠征)を畏れました。
 
秋七月、九真交趾二郡の兵が反して官府を攻めました。
官府は叛乱した者を撃破しましたが、その間に蛮勢(區憐等の勢力)が盛んになりました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
八月庚子、熒惑が南斗を犯しました。
『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、「熒惑」は火星、「南斗」は北方の宿(星座)です。
 
[十一] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
江夏の盗賊が邾長(県長)を殺しました。
 
[十二] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月甲申(初十日)、順帝が長安行幸しました。
通過した場所で鰥寡(配偶者を失った男女)、孤独(孤児や身寄りがない老人)、貧困のため自存できない者に一人当たり五斛の粟を下賜しました。
 
庚子(二十六日)、順帝が未央宮に入りました。
三輔の郡守都尉および官属を集めて慰労賞賜を行い、宴を開きました(労賜作楽)
 
十一月丙午(初二日)、順帝が高廟を祀りました。
丁未(初三日)、順帝が十一陵を祀りました。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
扶風の人田弱が同郡の法真を推挙しました。法真が内外の学(資治通鑑』胡三省注によると、東漢の諸儒は「七緯」を内学、「六経」を外学としました。「七緯」は『尚書緯』『詩緯』『易緯』『礼緯』『春秋緯』『楽緯』『孝経緯』で、「六経」は『尚書』『詩経』『易経』『礼記』『春秋』『楽経』です)に広く通じているのに隠居していたため、田弱は法真を京師に召さず、郷里にいるまま袞職(三公職)を加えるべきだ(宜就加袞職)と勧めました。
 
順帝は虚心になって法真を招きたいと欲しましたが、前後四回召しても法真は従いませんでした。
友人の郭正がこれを称えて言いました「法真は名を聞くことができても、その身は見るのは難しい。(法真が)名声から逃げれば名声が自ら(法真に)従い、(法真が)名声を避ければ名声が自ら(法真を)追いかける(本人が名声を欲しなくても、名声から逃れることができない。原文「逃名而名我隨,避名而名我追」)。まさに百世の師といえるだろう。」
 
法真は法雄(安帝永初四年110年参照)の子です。
 
[十四] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
丁卯(中華書局『白話資治通鑑』は「丁卯」を恐らく誤りとしています)、京師で地震がありました。
 
[十五] 『資治通鑑』からです。
中常侍張昉等が国権を専弄していたため、太尉王龔が張昉等を誅殺するように上奏しようとしました。
しかし宗親の中に楊震の故事によって王龔を諫める者がいたため楊震は樊豊等を糾弾して自殺に追い込まれました。安帝延光三年124年参照)、王龔は上奏を中止しました。
 
[十六] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月乙亥(初二日)、順帝が長安から雒陽に還りました。
 
 
 
次回に続きます。