東漢時代206 順帝(十九) 李固の上書 138年(1)

今回は東漢順帝永和三年です。二回に分けます。
 
東漢順帝永和三年
戊寅 138
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と資治通鑑』からです。
春二月乙亥(初三日)、京師および金城、隴西で地震があり、二郡で山が崩れて地が陥没しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
戊子(十六日)、太白が熒惑(火星)を犯しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
夏四月、九江の賊蔡伯流が郡界を侵して広陵に及び、江都長(県長)を殺しました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
戊戌、順帝が光禄大夫を派遣して金城と隴西を案行(巡行)させました。
七歳以上で圧死した者に一人当たり銭二千を下賜し、一家が全て害を被った者は收斂(棺に収めて埋葬すること)しました。また、本年の田租を除き、被害が特に甚だしい者は口賦を徴収しないことにしました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
閏四月、蔡伯流等が衆を率いて徐州刺史応志を訪ね、投降しました。
 
『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、応志の字は仲節といい、汝南南頓の人です。曾祖父を応順といいます。
応順は和帝時代に河南尹、将作大匠になりました。『後漢書楊李翟応霍爰徐列伝(巻四十八)』に記述があります。  
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と資治通鑑』からです。
己酉(初四日)、京師で地震がありました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
五月、呉の郡丞羊珍が反して郡府を攻めました。
太守王衡がこれを破って斬りました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
六月辛丑、琅邪王劉遵(『後漢書光武十王列伝(巻四十二)』では「劉尊」です)が死にました。
 
劉遵の諡号は貞王で、恭王劉寿の子です。劉寿は夷王劉宇の子で、孝王劉京の孫、光武帝の曾孫です。
『光武十王列伝』によると、劉尊(劉遵)の死後、子の安王劉據が継ぎました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
侍御史賈昌と州郡が協力して區憐を討伐しましたが、勝てませんでした。
逆に區憐に包囲攻撃されて一年以上経ち、兵穀(援軍と食糧)が続かなくなります。
 
順帝が公卿百官および四府の掾属を招いて方略を問いました。
資治通鑑』胡三省注によると、大将軍府には掾属が二十九人、太尉府には二十四人、司徒府には三十一人、司空府には二十九人いました。
皆、大将を派遣して荊、揚、兗、豫州から四万人を動員することを建議します。
 
しかし李固が反対して言いました「もし荊(二州)が無事なら(安定しているのなら)兵を徴発することもできます(発之可也)。しかし今の二州では盗賊が磐結(堅く結びつくこと)して散らず、武陵南郡の蛮夷もまだ和さず(未輯)、長沙桂陽はしばしば徵発を被っています。もしこれ以上擾動したら(民を騒動させたら)、必ず更に患が生まれます。これが不可とする一つ目の理由です(其不可一也)。また、兗豫の人が突然徵発を被り、遠く万里の地に送られて(遠赴万里)、還期(帰還する期限)がなく、詔書が迫促(逼迫)したら、必ず叛亡(離反逃走)を招きます。これが不可とする二つ目の理由です(其不可二也)。南州は水土が温暑で、加えて瘴気(病に至らせる熱気。毒気)もあるので、死亡に至る者は必ず十分の四五を占めます(致死亡者十必四五)。これが不可とする三つ目の理由です(其不可三也)。遠く万里を越えたら(遠渉万里)士卒が疲労するので、嶺南に至っても既に戦闘に堪えられません(比至嶺南不復堪闘)。これが不可とする四つ目の理由です(其不可四也)。軍行は三十里を程(一日の行程)とするものであり、日南からは九千余里離れているので、三百日を経てやっと到着できます。一人に(一日当たり)五升の食糧を与えると計算したら(計人稟五升)(四万の兵で)米六十万斛を使うことになります。将吏の驢馬の食(または将吏の食糧や驢馬の飼料。原文「将吏驢馬之食」)を計らず、ただ負甲(甲冑を身につけた兵)が自分で運ぶ分だけで(負甲自致)、これだけの出費になるのです(費便若此)。これが不可とする五つ目の理由です(其不可五也)。たとえ軍がその場所に至ったとしても(『資治通鑑』の原文は「設軍所在」ですが、『後漢書南蛮西南夷列伝(巻八十六)』では「設軍到所在」です。ここは『後漢書』を参考にしました)、死亡する者が必ず多数に上ります(死亡必衆)(その結果)敵を防ぐのに足りなくなったら(不足禦敵)、更にまた徴発しなければなりません。これは心腹を刻割して(切り割いて)四支(四肢)を補うようなものです。これが不可とする六つ目の理由です(其不可六也)。九真は日南から千里しか離れていないのに、その吏民を徴発してもやはり堪えられませんでした(前年、九真の兵も遠征を恐れて叛しました。原文「発其吏民猶尚不堪」)。四州の卒を苦しめて万里の艱(困難)に赴かせたらなおさらです。これが不可とする七つ目の理由です(其不可七也)
以前、中郎将尹就が益州の叛羌を討った時、益州ではこういう諺が語られました『虜(羌)が来るのはまだいい。尹(尹就)が来たら我々を殺す(虜来尚可,尹来殺我)。』後に尹就は徵還(召還)され、兵が刺史張喬にわたされると、張喬はその将吏によって旬月(一カ月)の間に寇虜を破殄(殲滅)しました(安帝元初二年115年および元初四年117年参照)。これは将を発することに益がない效(証拠)であり、州郡に任せることができる験(証拠、証し)です。改めて勇略仁恵があって将帥を任せられる者を選んで刺史太守に任命し、全て交趾に住ませるべきです。今、日南の兵は孤立して穀物もないので(単無穀)、守るには足らず、戦うにも能力がありません(守既不足戦又不能。暫くは吏民を遷して北の交趾を頼り(可一切徙其吏民北依交趾)、事が静まった後、本(本郡。日南)に帰らせるべきです。同時に、蛮夷を募って互いに攻撃させ、金帛を転輸(輸送)してその資(資金。補助)とします。また、(蛮夷を)反間させて、頭首(指導者の頭)をもたらすことができた者がいたら封侯裂土の賞を約束します(許以封侯裂土之賞)
并州刺史長沙の人祝良は性格が非常に勇敢果断であり(性多勇決)南陽の人張喬も以前、益州で破虜の功があったので、どちらも任用できます。昔、太宗(文帝)は現地で魏尚に雲中守を加え、哀帝は現地で龔舍を泰山守に任命しました(『資治通鑑』胡三省注によると、龔舍は楚の人で、朝廷に召されて諫大夫になりましたが、病のため免官されました。後に再び召されて博士になりましたが、また病のため去りました。暫くしてから、哀帝が使者を楚に送ってその場で龔舍を泰山太守に任命しました)。祝良等をそれぞれの地で任命して、便道(近道)から官に就かせるべきです(直接任地に赴かせるべきです)。」
四府は皆、李固の意見に賛成しました。
朝廷は祝良と張喬を京師に招かず、それぞれの地で九真太守と交趾刺史に任命しました。
『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、祝良の字は邵卿で、長沙臨湘の人です。
 
張喬は交趾に入ってから慰誘(慰撫して誘うこと)の意を開示しました。その結果、挙兵した者達が全て投降して解散しました。
祝良も九真に到着してから単車で賊の中に入り、方略(計謀。策略)を設けて威信によって人々を招いたため、投降した者は数万人に上り、皆、祝良のために府寺(官舎)を修築しました。
こうして嶺外が再び安定しました。
 
 
 
次回に続きます。