東漢時代207 順帝(二十) 左雄と周挙 138年(2)

今回は東漢順帝永和三年の続きです。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。
秋七月丙戌、済北王劉多が死にました。
 
劉多の父は節王劉登、劉登の父は恵王劉寿で、劉寿は章帝の子です。
後漢書章帝八王伝(巻五十五)』によると、劉多の諡号は哀王で、子がいませんでした。
永和四年(翌年)、戦郷侯劉安国(劉寿の子。『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』では「劉安」です)が済北王に立てられます。諡号は釐王です。
 
[十一] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋八月己未(二十日)、司徒黄尚を罷免しました。
九月己酉(中華書局『白話資治通鑑』は「己酉」を恐らく誤りとしています)、光禄勳長沙の人劉寿を司徒に任命しました。
 
『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、劉寿の字は伯長で、臨湘の人です。臨湘は長沙郡に属します。
 
[十二] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
丙戌(十七日)、大将軍と三公に命じ、元刺史二千石および現職の令長、郎、謁者、四府の掾属の中から、剛毅武猛で謀謨(計謀)があって将帥の任務を負える者を各二人挙げさせ、特進、卿、校尉にも各一人挙げさせました。
 
以前、左雄が尚書令だった時、冀州刺史周挙を推挙して尚書にしました。
後に左雄が司隸校尉になってから、元冀州刺史馮直を将帥の責を任せられる者として推挙しました。
しかし馮直はかつて貪汚の罪で坐したことがあったため、周挙が左雄を弾劾する上奏を行いました(左雄が相応しくない人物を推挙したという内容です)
左雄が言いました「詔書は私に武猛を選ばせたのであって、私に清高を選ばせたのではない。」
周挙が言いました「詔書は君(あなた)に武猛を選ばせたのであって、君に貪汚を選ばせたのではありません。」
左雄が言いました「君を推挙したのに、まさにそれが原因で自ら失敗を招いてしまった(進君,適所以自伐也)。」
周挙が言いました「昔、趙宣子が韓厥を任用して司馬にした時、韓厥は軍法によって宣子の僕を戮(処刑)しました。すると宣子は諸大夫にこう言いました『わしを祝賀せよ(可賀我矣)。わしが選んだ厥ならこの職を任せられる(吾選厥也任其事)。』今、君(あなた)は挙(私)を不才とみなさず誤って諸朝に昇らせました。だから君(あなた)に阿諛して君の辱じとなることはできないのです(あなたに阿諛することであなたに辱じをかかせるわけにはいかないのです)。しかし図らずも君の意(心)と宣子は異なっていました(不寤君之意與宣子殊也)。」
左雄は周挙の諫言を喜び、謝罪して言いました「私はかつて馮直の父に仕え、また、馮直とも関係が善かった。今、宣光(周挙の字です)がこうして私のことを上奏したが、これは私の過ちだ(以此奏吾,是吾之過也)。」
天下はこの事があってますます左雄を賢人とみなしました。
 
当時は宦官が競って恩勢を売っていましたが(原文「競売恩勢」。『資治通鑑』胡三省注は「権勢にたよって恩を売ることで自分を養った(挾勢市恩以此自鬻也)」と解説しています)、大長秋良賀(『資治通鑑』胡三省注によると、春秋時代、鄭の穆公に子良という子がおり、その後代が良を氏にしました)だけは清倹(清廉倹朴)退厚(謙退敦厚)でした。
詔によって武猛を挙げることになった時、良賀は推挙する者がいませんでした。
順帝がその理由を問うと、良賀はこう答えました「臣は草茅(民間)で生まれて宮掖(皇宮)で成長したので、人を知る明がなく、士人の類と交流したこともありません(未嘗交加士類)。昔、衛鞅商鞅は景監(秦孝公の寵臣)によって推挙されましたが(衛鞅因景監以見)、有識の者は(衛鞅が)終わりを全うできないことを知っていました(有識知其不終)。今、臣が挙げた者を得たとしても、(その者は)栄誉とせず逆に屈辱とするでしょう(今得臣挙者匪栄伊辱)。だから推挙できないのです(是以不敢)。」
順帝は良賀を称賛しました。
 
後漢書宦者列伝(巻七十八)』はこれを「陽嘉中(陽嘉年間)」の事としていますが、『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』では本年(永和三年138年)に武猛を推挙する詔が出されています。『資治通鑑』胡三省注は「(『宦者列伝』は)誤って永和を陽嘉と書いた」と解説しています。
 
[十三] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月、焼当羌の那離等三千余騎が金城を侵しましたが、護羌校尉馬賢が撃破しました。
羌人は互いに誘い合って那離から離反しました(遂相招而叛)
 
[十四] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月戊戌朔、日食がありました。
 
 
 
次回に続きます。