東漢時代208 順帝(二十一) 曹騰 139年
今回は東漢順帝永和四年です。
東漢順帝永和四年
己卯 139年
しかし他の宦官達は曹節等が寵任されていることに嫉妬し、逆に陥れようと欲しました。
『三国志・武帝紀』の注によると、曹騰の父も曹節といいますが、曹騰は沛国譙の人なので(『後漢書・宦官列伝(巻七十八)』)、「南陽の人・曹節」とは別人です(曹騰の養子・曹嵩は『三国志』に登場する曹操の父に当たります)。
本文に戻ります。
中常侍・張逵、蘧政、楊定等が左右の者と共に謀り、梁商および中常侍・曹騰、孟賁を讒言してこう言いました「(梁商等は)諸王子を徴集して廃立を図議(討議。謀議)しようと欲しています。梁商等を収めて(捕えて)罪を裁くこと(案罪)を請います。」
順帝が言いました「大将軍父子はわしが親しくする者だ(我所親)。曹騰と孟賁はわしが愛する者だ(我所愛)。必ずそのような事はない(必無是)。ただ汝等が共に嫉妬しているだけだ(但汝曹共妒之耳)。」
張逵等は進言が用いられないと知り、禍が訪れることを懼れました。そこで、退出してから矯詔(偽の詔)によって省中(禁中)で曹騰と孟賁を收縛(逮捕)しました。
それを聞いた順帝は激怒し、宦者・李歙に命じて急いで曹騰と孟賁を呼び戻させました。二人は釈放され、張逵等が逆に捕まって獄に下されます。
春正月庚辰(十三日)、張逵、蘧政、楊定等が誅に伏しました(処刑されました)。
この事件は弘農太守・張鳳と安平相・楊皓も巻き込み、二人とも獄に下されて死にました。
更に供述によって在位の大臣にも影響を及ぼしました。
梁商は冤罪によって侵害される者が多くなることを懼れ、上書してこう言いました「『春秋』の義によるなら、功は元帥にあり、罪は首悪で止まるものです(功在元帥,罪止首悪)。大獄が一度起きたら、無辜(無罪)の者が衆となり(多数になり)、死囚(死刑囚)が久しく繋がれて纖微(些細な事)が大事に成るので(多数の死刑囚が久しく繋がれたら供述が増えて些細な事でも大罪になってしまうので)、和気に順迎(順応)して平政成化すること(政治を安定させて教化を完成させること)にはなりません。早く終息させて逮捕の煩(苦悩、混乱)を止めるべきです(宜早訖竟以止逮捕之煩)。」
順帝はこの意見を採用して既に罪に坐した者だけを裁きました(罪止坐者)。
二月、順帝が梁商の少子に当たる虎賁中郎将・梁不疑を歩兵校尉に任命しました。
しかし梁商が上書して辞退しました「不疑は童孺なのに、いたずらに成人の位にいます(猥処成人之位)。昔、晏平仲(晏子)は鄁殿(封地の名)を辞退してその富を安んじ、公儀休(魯相)は魚飧(魚料理。賄賂)を受けないことで位を定めました。臣は不才ですが、同じように聖世において福禄を固めることを願います。」
順帝は梁不疑を侍中・奉車都尉にしました。
焼当羌の那離等がまた反しました。
夏四月癸卯(初八日)、護羌校尉・馬賢が焼当羌を討って大破し、那離等を斬って首虜(首級)千二百余級を獲ました。
五月戊辰(初三日)、故済北恵王・劉寿の子・劉安を済北王に封じました。
済北王は前年に哀王・劉多が死に、子がいないため一時途絶えていました。恵王・劉寿は章帝の子です。
秋八月、太原郡を旱害が襲い、民庶(民衆)が流散しました。
癸丑、光禄大夫を派遣して案行(巡視)・稟貸(食糧を貸し与えること)させ、更賦(兵役の代わりに納める税)を免除しました。
冬十月戊午、順帝が上林苑で校猟(狩猟の一種)し、函谷関を経由して還りました。
十一月丙寅、順帝が広成苑を行幸しました。
次回に続きます。